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- ■9〜11世紀
- 9世紀初頭、アッバース朝の宗主権のもとで、アム川の南にイラン系のサーマーン朝が興った。サーマーン朝は、9世紀後半、アッバース朝から独立し、支配を拡大していった。10世紀には、アム川以北の草原地帯からアフガニスタン、南はイラン北部までを支配下に置いた。
962年、アフガニスタンの南部ガズニ地方で、トルコ系のガズニ朝が建国され、サーマーン朝から独立した。
これはサーマーン朝のトルコ系奴隷出身の総督アルプ・ティギンによって建設された国家だった。
ゴール朝が、1048年アフガニスタンのゴールに建国された。
シル川下流のホラズム地方におこったトルコ系のイスラム王朝ホラズム・シャー朝は、中央アジア・西アジアに勢力を拡大し、1215年ゴール朝を滅ぼし、アフガニスタンを勢力下に置いた。
1221年から1223年、モンゴルのチンギス・ハーンの大軍勢によるホラズム・シャーに対しての遠征が行われた。そしてモンゴルは、アフガニスタンに侵攻し、バルフ、バーミヤン、ヘラート、ガズニなどの都市を破壊し尽くした。彼らはカレーズ(地下水路)をも破壊したため、多くの町が滅亡し、現在でも再建されていない町が多い。
モンゴル帝国の支配が、その後続いた。
1306年、チンギス・ハーンの次男チャガタイの一族によって、チャガタイ・ハーン国が建国された。
カブール・バーミアンを含むアフガニスタン東部は、チャガタイ・ハーン国、バルフ・ヘラートなどの西部はイル・ハーン国の領土となった。チャガタイ・ハーン国は、1340年代に東西に分裂した。
1370年、モンゴルの貴族の末裔と言われるティムールが、パミール以西の草原地帯の支配権を樹立した。ティムール帝国は領土を拡大し、アフガニスタンの地も支配下に入った。その後100年以上、アフガニスタンはティムール帝国の領土であった。
ティムールは1405年亡くなった。その死後、ティムール帝国は内紛が続き、地方の勢力は次々と独立していった。
ティームールの子孫であるバーブルは、ティムール帝国再興を図ったが、短期間でカブールを追われ、インドへ移動した。そして、1526年、インドのデリーを支配していた王朝を破り、デリーを首都としてムガール帝国を建設した。ムガール帝国は最盛期、カブール、カンダハル、ゴールなどアフガニスタンの大半を支配下に置いた。
- ■18世紀
- 17世紀後半からムガール帝国は次第に衰退していった。各地でムガール帝国に対する反乱が相次いでいた。そしてヨーロッパから、イギリス、フランスなどがインドに圧力を強めていた。
1774年に、アフガニスタン王国が建国された。
- ■19世紀
- 19世紀に入ると、イギリスはインドの植民地化を大きく進めていった。
「植民地インド」に対する不安定要素としてアフガニスタンなどの隣国の影響を恐れていた。加えて植民地インドにとって、アフガニスタンはロシアに対する緩衝国としての重要な国家だった。イギリスは、アフガニスタンへのロシアの影響力を常に監視していた。アフガン王国はあまりに弱く自立できなかった。そして外部からの援助を求めた。イギリスは良い返事をしなかったが、同様な申し入れがロシアにもなされた。
イギリスはロシアの影響力を排除するために、アフガニスタンを支配下に置くために軍隊を送った。
第一次アフガン戦争は、1839年から1842年の間行われた。1939年イギリスはカブールを占領した。
しかし1841年、地元民が蜂起し、カブールのイギリス守備隊4500名はインドへ退却しようとした。そしてカイバル峠でほとんど全滅してしまった。わずか1人が生き残っただけだった。約800万ポンドの戦費を使い、イギリスは一片の領土を得ることなく終わった。
第二次アフガン戦争は、1878年から1880年に起こった。この時の戦いでアフガニスタンは、イギリス軍を破っている。第二次世界大戦以前に、イギリスがアジアで正規戦に敗れたのはこの1回だけだった。
アフガニスタンはイギリス保護国となる事に同意した。カブールにイギリス外交官を駐在させる事に同意した。この外交使節団は、カブールに着くや否や全員殺された。
- ■20世紀
- 1919年5月27日、第三次戦争が起こり、ついにイギリスは撤退し、アフガニスタンは独立した。そして1970年代まで、王制を保っていた。そして1973年、王制は終わりを告げた。 1979年12月、ソビエトは軍事介入した。1979年、ソ連をバックにした共産主義革命が起こった。ソ連に支えられた共産主義政府が樹立された。アフガニスタンのイスラム教徒たちは、山岳地帯でゲリラ闘争を始めた。
イギリスに代わりロシアの影響を心配したのがアメリカだった。アフガニスタンの貿易はおもにソビエトだった。そしてソビエトによる経済援助は西側の援助をはるかに越えていた。
外交関係は比較的安定し、さほど問題なかったが、国内では不安定な状態にあった。当時の国内の不安定さが最終的に現在のアフガニスタンの状況につながったと言えるかもしれない。
政治と宗教を分離させるトルコ型の改革は第一次大戦と第二次大戦との間に失敗した。戦後、王国は
1989年、ソビエトは撤退した。
そしてナジブラ政権は弱体化した。内戦を終わらせるため、ナジブラは挙国一致の政府を作ることを提案した。しかしムジャヒディンはナジブラと彼の政党がいる政府への参加を拒否した。
1992年4月、ナジブラは追放され、ムジャヒディンがカブールに凱旋した。内戦が終わった。その1週間後、カブールを占領したムジャヒディン各党派の争いが沸き起こった。臨時大統領が就任し、2カ月後、ラバニが代わって大統領となった。