パキスタン

パキスタン

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基本情報

国名 パキスタン・イスラム共和国
面積 803,940平方 km (日本の約2.13倍)
人口 1億8,440万4,791人(2010年推計)
首都 イスラマバード
言語 ウルドゥー語、英語
宗教 イスラム教97% (スンニー派 77%、 シーア派20%)、 キリスト教、ヒンズー教、その他 3%
通貨 パキスタン・ルピー
為替レート 1ドル=約51.9ルピー 100ルピー=約206円
日本との時差 -4時間
ビザ
ビザ
観光・商用目的で入国する場合、ビザが必要です。
最長で3か月有効なビザが発給されます。また、パキスタン国内の各旅券事務所で申請すれば、最長3か月の滞在許可延長が可能です。
短期商用目的の場合、空港到着時にビザが取得可能となる等の優遇措置が設けられていますが、いろいろと条件が設けられています。
パスポート
ビザ申請時に残存有効期間が6ヶ月以上残っていること。

※ビザやパスポートなどの情報は予告なく変更されることがあります。
必ず、パキスタン大使館、領事館などで確認してください。
国旗  
国際電話  

 
   
   
   

地勢・気候

地図
位置:インドとイランに挟まれ、アラビア海に面している。
国土
全面積: 803,940平方 km
陸地の面積: 778,720 平方 km
国境線: 全長 6,774 km、 アフガニスタン 2,430 km、中国523 km、インド 2,912 km、 イラン 909 km
海岸線:1,046 km
国際紛争:インドとのジャンムー・カシミールの領有をめぐる争いは緊張を増している。
気候:大部分は暑く乾燥した砂漠。北西部は温暖。北部は極寒。
カラチの気温と降水量
地形:東部は平らなインダス平野。北部と北西部は山。西部はバロチスタン高原。
天然資源:土地、大規模な埋蔵量の天然ガス、わずかな石油。低質の石炭。鉄鉱石、銅、塩、石灰石。
潅漑地:170,000 平方 km (1992年)

政治

正式名称:パキスタン・イスラム共和国
(英語:Islamic Republic of Pakistan)
政体:共和国
首都:イスラマバード
行政区分:州4、テリトリー1、首都1
独立: 1947年8月14日 (イギリスより)
憲法:1973年4月10日。1977年7月5日停止された。1985年12月30日、修正され復活。,
法制度:イギリスの慣習法に基づき、イスラム国としてのパキスタンの発達に適応させた条項がある。
選挙権:21歳以上の国民すべて。有権者を分けて、非イスラム教徒に対しての議席を指定している。
行政府
元首:大統領 アーシフ・アリー・ザルダリ(2008年9月6日就任)
大統領は、国会議員の選挙により選出される。任期は5年。最新の選挙は2008年9月6日に行われた
政府の長:首相ユースフ・ラザ・ギラーニ
立法府:2院制(Majlis-e-Shoora)
上院: 最新の選挙は2008年3月3日に行われた。(次回は2012年3月)
下院:前回の選挙は2008年2月18日に行われた。
国旗:緑地に垂直の白い帯(少数宗教の役割を象徴している)が巻き上げ側にある。大きな白い三日月と星が緑地の中心にある。三日月と星、そして緑はイスラムの伝統的なシンボルである。

■軍事

防衛費: 32億ドル、GDPの5.6% (94/95年)

経済

概況
パキスタンの経済は、1993年10月にベナジル・ブットが首相になって以来、いくつかの重要分野で効果を上げている。
彼女の前任者、暫定首相Moeen QURESHI (1993年7〜10月)は、経済改革と緊縮措置を始めた。援助国各国とIMFは,1994年2月に,パキスタンに対して13億ドルの構造調整融資を与えた。そのため彼女には、経済改革と緊縮措置を続けるという圧力がかかっていた。
外貨準備高は1994年に、30億ドル以上に昇った。そして予算不足は、実質的に減少した。実質GDP成長は、92〜93年は2.3% だったが、93年〜94年にかけて4%にあがった。
外国からの直接およびポートフォリオ投資もまた増加している。巨大な公益事業の私営化は1994年に、パキスタン電電会社 (PTC)と水力開発公社(WAPDA)の12% を売却することで始まった。 国営銀行と他の巨大な公営事業の売却は1995年に予定されている。
しかしなお、高水準の債務を負っている公営事業と高い防衛費、小さな税基盤、巨大な人口、綿へ依存した輸出の構造などは安定した経済環境を作るための妨げとなっている。政府は、それら長年の弱大した経済に対処しなければならない。
加えて、パキスタンのインフラは不十分で悪化している。低い識字率は工業の成長を束縛し、党派や、民族、部族間の暴力事件は増え続け、生産を混乱させている。
GDP(MER): 1,665億1,500万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(MER):1,016.734ドル (2009年:IMF)
GDP(PPP): 4,358億700万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(PPP):2,661.022ドル (2009年:IMF)
国内総生産実質成長率:1.966% (2009年:IMF)
インフレ率(消費者物価):13.139% (2009年:IMF)
失業率:14% (2009年推計)
国家予算 (2009年推計)
歳入:226.5億ドル
歳出:309.8億ドル
輸出:183.3億ドル(2009年推計)
商品:繊維製品(衣類、ベッドリネン、綿の布、糸)、米、皮革製品、スポーツ用品、化学薬品、製造、カーペット、ラグ
相手国:アメリカ15.87%、UAE 12.35%、アフガニスタン 8.48%、 イギリス 4.7%、 中国 4.44% (2009年)
輸入:285.3億ドル(2009年推計)
商品:石油、石油製品、機械、プラスチック、輸送機器、食用油、紙及び板紙、鉄鋼、紅茶
相手国:中国15.35%、サウジアラビア 10.54%、UAE 9.8%、アメリカ 4.81%、クウェート 4.73%、マレーシア 4.43%、インド 4.02% (2009年)
対外債務:536.2億ドル (2009年推計)
工業生産: 成長率-1.9% (2009年)
発電量:908億kWh (2007年)
産業:テキスタイル、アパレル、食品加工、医薬品、建設資材、紙製品、肥料、エビ
農業:GDPの21.6%
主要作物:綿、小麦、米、サトウキビ、果物、野菜、牛乳、牛肉、羊肉、卵
通貨:パキスタン・ルピー
1 Pakistani rupee (PRe) = 100 paisa
為替レート
1ドル=81.41パキスタン・ルピー (2009年)
交通・運輸
鉄道
全長: 8,163 km(1996年推計)
幹線道路
全長:224,774 km
舗装:128,121 km
未舗装: 96,653 km (1996年推計)
通信
電話:255万回線(1997年推計)
ラジオ局 :AM 26、FM 8、短波 0
テレビ局: 29

歴史

紀元前
紀元2500年頃より、インダス川の広大な流域に高度な文明が栄えた。インダス文明である。
紀元前1500年頃、中央アジアの草原地帯から移動したアーリア人がインド亜大陸へ侵入した。そして、インダス文明を築いた先住民を征服し定着していった。
彼らアーリア人は、紀元前9世紀までにはパキスタン、インドの北部に広がった。
彼らの宗教ははヒンズー教の前駆者であり、彼らの厳しい労働の分担は初期のカースト制度の萌芽であった。
紀元前6世紀頃より、アケメネス朝ペルシャがインダス河流域を支配していた。
紀元前327年、アレキサンダー大王がペルシャ帝国を打ち破り、ヒンズークシ山脈を越え、ペルシャ帝国の残存兵を討ち滅ぼすためにやって来た。
彼の滞在は短かったが、今でもいくつかの部族には彼らがアレキサンダーやその軍隊の子孫だと主張する伝説が残っている。
後にシルクロードの全盛期がやって来た。中国、インドおよびローマ帝国間の貿易が行われた。
クシャン朝はシルク貿易の中心にあり、ガンダーラ地方(現在のペシャワール周辺)にクシャン朝の首都を築いた。
2〜15世紀
紀元2世紀までに、クシャン朝は最盛期を迎え、領土はイラン東部から中国辺境および南はガンジス河まで拡大した。
クシャン朝は仏教国であり、カニシカ王の下で数千の僧院やストゥーパが建てられた。
まもなくガンダーラは貿易と宗教的な学問と仏教徒の聖なる土地として巡礼する場所となった。
ガンダーラ地方を中心に栄えたのでガンダーラ美術と言われる。
クシャン朝は4世紀までに分裂した。後にササン朝ペルシャ、グプタ王朝、中央アジアからのエフタルの侵略、これに続いて突厥がインダス河を流域を支配した。
10世紀に入るとアフガニスタンに成立したトルコ系のガズニ朝が勢力を拡大し、インダス河流域を支配した。
16〜19世紀
次の強大な国家は16、17世紀に君臨したムガール帝国である。その創始者バブールはティムールの子孫である。
その最盛期には、ムガール帝国はカシミール、アフガニスタン、アラビア海からベンガル湾に至るまでの北部、中部インド全域を支配下においた。
イギリスは、1613年、ムガール朝よりインドのスラットに商館建設の許可を得て以来、インド亜大陸で勢力を次第に伸ばしていた。
1799年、シーク教徒ランジット・シンはラホールの統治を譲渡された。 彼は数十年をかけ、ここを基盤に自国の強化を図った。「聖なる兄弟」という宗教的結社をインド亜大陸で最も恐るべき軍に作り上げた。
彼はイギリスと互いに領土不可侵の協定を結んだ。
しかし1839年の彼の死と後継者の条約違反は、シーク教徒を戦争へと投げ込んだ。
1845〜46年、1848〜49年の2度にわたるシーク戦争が起こった。 イギリスはその戦争で勝利し、カシミール、ラダー、バルチスタン、ギルギットを併合し、それらを、ジャンムー・カシミール国と名づけた。こうしてイギリスはロシアの領土拡張主義への緩衝国を北西部に作り上げた。これはいまだインド亜大陸の最も扱いにくい災いになったものを作り上げた。 1848〜49年のイギリスに対しての二度目の戦争は、帝国を崩壊させた。1850年代に、イギリスはパンジャブとシンドを併合した。
1858年、ムガール帝国は滅亡し、イギリスの直接統治が始まった。
20世紀
19世紀後半、イギリス領インドでは国民の民族意識が高まっていた。
1906年ムスリム連盟が、イスラム教国家の独立を要求するために設立された。
しかし完全にイスラム教の母国の分離が提案されたのは、24年後のことだった。ほぼ同じ頃、イギリスのイスラム教徒の亡命者がパキスタンという名前を作った。「Land of the Pure」という意味である。
ヒンズー教徒とイスラム教徒の間の暴力は、1940年代中頃エスカレートし、イギリスは、イスラム国家を分離させることは避けられないと認めた。新しい総督ルイス・マウントバッテン卿は、1948年6月までに独立させることを宣言した。
イギリス領インドは、インドと言う名前を維持した中央部の主としてヒンズー教徒地域とイスラムの東西パキスタン(東パキスタンは現在のバングラディシュ)に分けられた。
国境線の宣言は、膨大な数の移住を引き起こした。
パキスタン独立
カシミール(ただしくはジャンムー・カシミール国)は、インドおよびパキスタンの一部となることを望んではいなかった。
インドとパキスタンは軍隊を送り、二国間で戦闘が起こった。
1949年、国連は停戦を調停し2国にそれぞれカシミールを分配した。しかし結局なお国境は明確でないまま残された。
イスラム教徒の独立運動を指導したアリ・ジンナーは、パキスタンの最初の総督となった。しかし彼は独立の約一年後亡くなった。
副首相で彼の友人だったカーンが彼の跡を継いだ。しかし3年後、暗殺された。その後、総督と首相の不和と厳しい経済不振の混乱が続いた。
1956年、憲法が採択され、パキスタンはイスラム共和国となった。西パキスタンは 東パキスタンと一つの国家を作った。
その2年後、パキスタンの政治に広まった口論と日和見主義に飽き飽きしたイスカンダル・ミルザ大統領は憲法を廃止し,政党を禁止した。そして戒厳令を宣言した。国家としてのパキスタンはそれ以来、別のものに変わった。
1965年、1971年、インドとの戦争が起こった。
1971年の印パ戦争は、東パキスタン独立にインドが協力して起こった。
1971年12月16日、東パキスタンは独立し、バングラディシュとなった。
1977年7月、ブット首相の右腕、ムハマッド・ジアウル・ハク陸軍参謀長が、軍事クーデターによって権力を得た。ズルフィカル・アリ・ブット首相は処刑された。
ハクは、1988年8月、飛行機事故で亡くなった。
総選挙が行われ、パキスタン人民党が第一党となった。これにより、大統領はイスハク・カーンが就任し、首相としてブット元首相の娘ベナジルがイスラム国家で最初の女性首相となった。
しかし1990年8月、カーン大統領によって彼女は解任された。
1990年10月、ナワズ・シャリフが首相に就任した。
1993年4月、カーン大統領はシャリフ首相を解任した。
しかし政局は混乱し、93年7月、大統領、首相ともに辞任した。
1993年10月6日、総選挙が行われ、パキスタン人民党が勝利し、党首ベジナル・ブットは首相へ復帰した。
94年に入ると与野党の対立が深まった。
またカラチではムハジール民族運動(MQM)の武装勢力によるテロ、暴力行為が頻発するようになった。モハジールとは、1947年のインド・パキスタンの分離独立後に、難民としてインドからパキスタンに流入してきたイスラム教徒である。彼らの多くがカラチなどのあるシンド州に住み、カラチでは総人口の約60%がムハジールだと見られている。シンド州の民族シンディがシンド語を話すのに対し、ムハジールはウルドゥ語を話す。ムハジールは、独立州の設置、連邦政府、州政府などへの職員採用枠の設定などを要求している。
カラチの治安悪化は、パキスタンの経済へ大きな影響を与えており、外国からの投資の中止、工業生産の低下などを招いている。
またパキスタンでは、アフガニスタン難民などによるヘロイン生産・密輸が急増し、麻薬常習者も急増している。

人々

人口:1億8,440万4,791人(2010年推計)
人口構成(2010年推計)
年齢 構成比 女性 男性
0-14 歳 42% 31,092,572人 33,037,943人
15-64 歳 59.1% 49,500,786人 53,658,173人
65 歳以上 4.2% 3,793,734人 3,495,350人
人口増加率: 1.589% (2010年推計)
出生率: 人口1,000人当たり25.3人 (2010年推計)
死亡率: 人口1,000人当たり7.06人 (2010年推計)
乳児死亡率(1歳以下): 出生1,000人当たり65.32人(2010年推計)
平均寿命(2010年推計)
全人口平均 男性 女性
65.63歳 63.84歳 67.5歳
民族構成:パンジャブ人、シンド人、パシュトゥン人(パターン人) 、バルチ人ほか
宗教: イスラム教97% (スンニー派 77%、 シーア派20%)、 キリスト教、ヒンズー教、その他 3%
言語:ウルドゥ語 (公用語)、 英語 (公用語/ パキスタンのエリートおよび大部分の政府の省で使われる母国語の異なる者同志が使う共通語)、パンジャブ語64%、シンド語12%、パシュトゥン語 8%、Urdu 7%、バルチ語その他9%
識字率(15歳以上)(2005年推計)
全人口平均 男性 女性
49.9% 63% 36%
労働力: 5,378 万人 (2009年推計)
職業:(2005年推計)
農業 製造業 サービス業
43% 20.3% 36.6%

地図

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