バーレーン
政治

18〜19世紀
18世紀中頃、ハリファ一族がアラビア半島からこの地域に移住してきた。
彼らは最初カタール半島の北西部にあるズブラに居を構えた。そしてその地域で一番利益の上がる真珠貿易に従事した。
1782,3年頃、彼らはペルシャ人をバーレーンから駆逐した。しかし3年後、ハリファ一族はオマーンの侵入により追い払われた。一族がバーレーンへ戻ったのは1820年だった。
その後すぐ、バーレーン人の海族行為を止めるという条約がイギリスとかわされた。その条約は1835年、1861年に、改正されたが、いわゆる最初の保護条約となった。イギリスが軍事的な防衛をする代わりにバーレーンの外交をゆだねるというものだった。 イギリスの最大の関心事はその地域から他国の影響力を排除し、インドへ至るルートを保護するということだった。
20世紀
バーレーンは湾岸のアラブ世界で最初に石油が発見された場所である。それは1925年後半の事だった。それは、バーレーンにとって、良い時であった。そのころ世界の真珠貿易は崩壊していた。真珠貿易はバーレーンの主要経済を占めていたのだ。
一番重要な事実は、バーレーンでの石油の発見が湾岸諸国で最初だったというう事だった。バーレーンは石油収入で潤った。教育や医療面では劇的に改善された。
イギリスの湾岸での作戦にこの島は大きな役割を果たすようになった。
1935年、イギリス海軍は基地をこの島に移した。1946年、政治オフィスもバーレーンに移った。
バーレーンの近代化はハマド・ブン・アリ首長の下で始まり、その息子サルマンによって加速した。
1942年ハマド首長が亡くなり、サルマンが首長になった。彼は19年間在位したが、その間、国家の生活水準は飛躍的に上がった。
その間サウジアラビア、クウェート、カタールにおいて石油生産が爆発的に伸びた。
しかしアラブ世界でバーレーンの開発、保健衛生、教育レベルに匹敵する国はなかった。その結果、バーレーンは湾岸諸国の主要な企業国となった。
サルマンは1961年に亡くなった。そして彼の息子、現首長のイサ・ビン・スルマン・アル・ハリファが後を継いだ。
独立
イギリスが、1971年終わりまでにその地域から撤退すると公表した時、カタールはバーレーンおよびトルーシャルオマーン(現在のUAE)と連邦結成の交渉を行った。しかしイランがバーレーンの領有権を主張した。そのためその交渉は難航した。
国連によりイランとの問題は解決したが、バーレーンはその交渉から手を引き、1971年8月14日、独立を宣言した。1972年後半に、憲法を起草する為の憲法会議が、選ばれた。首長は1973年5月に憲法を発布した。そして1973年国民議会選挙が行われ、12月に召集された。しかしその20カ月後1975年に、急進的な国民大会の議員により行政府の職務が不可能であるという理由で、首長は国民議会を解散した。政党活動も禁止された。
1979年のイランでのイスラム革命は、バーレーンに警戒心を起こさせた。
支配層はイスラム教スンニー派だが、国民の70%はイランと同じシーア派である。政府はイランの影響を恐れている。現実に反体制運動も起こっている。
1970年代、80年代を通じて、バーレーンは大きな発展を遂げた。それは特に石油価格の高騰と、70年代終わりまでは他の湾岸諸国のと比べインフラ整備が進んでいたことによる。近年その企業国の地位に若干陰りが出てきたものの、経済は多様化し、石油への依存もますます減っている。
90年代には、イラクとの関係は急速に悪化している。湾岸戦争のとき、サダム・フセインがバーレーンに向けミサイルを発射した。そのミサイルは海上に落ちた。
カタールとはハワール諸島の領有権をめぐって、外交関係は冷えたままである。