

- ■14〜19世紀
- ムガール帝国の大守のもとで、ベンガル(カルカッタを州都とするインドの西ベンガル州とバングラディシュを含んだ地域)では美術、文学が花開いた。陸路での交易は拡大し、ベンガルは世界の海上貿易の拠点ともなった。
その富に目を付けたヨーロッパはその地域に勢力を確立し始めた。 15世紀、ポルトガルがこの土地にやって来た。
しかし1633年、地元の反乱により放逐された。
東インド会社は1690年、交渉の結果、カルカッタに軍事基地と商館を設立した。
当時すでにムガール帝国の力は減退していた。
1756年、ムガール帝国のベンガル大守スラジャ・ウ・ドウラは、イギリスが軍事基地の契約に違反したことにより、カルカッタからイギリス人を追放した。
しかし東インド会社軍は1年後の1757年、カルカッタを取り戻し、大守の軍を打ち破った。プラッシーの戦いである。この勝利により東インド会社はベンガルでの徴税権を得、収入は飛躍的に増加した。 この後、東インド会社は、支配を拡大し、インドの総面積の5分の3を支配した。
1857年、セポイの反乱は多数のイギリス人を殺し、鎮圧に2年もかかった。東インド会社の統治は崩壊し、反乱の鎮圧後、イギリスはインドを直接統治とし、これまでの東インド会社に代わり、インド省が行政を担当した。東インド会社は1874年6月1日解散した。
イギリスはベンガルに匹敵するものがないほどの組織と社会的な構造を作り上げた。そしてカルカッタはインド亜大陸では商業、教育、文化の最も重要な中心地の一つとなった。
しかし多くのバングラディシュの歴史家は、イギリスの独裁的な農業政策と半封建的なシステムの奨励が、富んだ地域を干上がらせ、社会構造にダメージを与えたと非難している。
イギリスの存在は少数派のヒンズー教徒には安らぎだったがイスラム教徒には災厄だった。
ヒンズー教徒はイギリス人に協力して、イギリスの教育施設に入学し英語の教育を受けた。しかしイスラム教徒は協力を拒否し、作物が不作になるといつも暴動を起こした。
第二次世界大戦で、イギリスは、約240万人のインド兵を駆り出し、膨大な戦費を使った。この結果、イギリスは、インドに対する債務国に転落し、インドはイギリスに対する忠誠心を失った。
第二次世界大戦の終結で、ヨーロッパの植民地主義は崩壊し、イギリス領インドの独立は必然的なこととなった。
- ■パキスタン独立
- ベンガルでは特に独立闘争は、イスラム教徒とヒンズー教徒の宗教衝突により紛糾した。
イギリスはイスラム教徒とヒンズー教徒の間にどのような合意も不可能だということを理解し、インド亜大陸を分割することを決定した。
インドの両側にあった二つの圧倒的なイスラム教徒の地域のベンガルとパンジャブの分割が、唯一の障害だった。
ベンガルでは状況は複雑だった。主要換金作物ジュートはイスラム教徒が支配する東ベンガルで作られるが、加工処理や船積みはヒンズー教徒が支配する西ベンガルのカルカッタでおこなわれた。
様々な不平にも関わらず、分割が行われ、東ベンガルは東パキスタンの一部となった。
1947年8月、インドとパキスタンは分離、独立した。
パキスタンはインドの両側、1600km以上離れた東パキスタンと西パキスタンの2つの分断された地域を国土とした。
パキスタンは西パキスタン主導の国家だった。
独立後のパキスタンは20年以上も政治的な不安定と、経済的貧困を続けた。文民政治は失敗し、政府は1958年、62年、69年と戒厳令が敷かれた。
東パキスタンは、イスラム教以外はほとんど共通性のない西パキスタンから、差別的統治を受けた。
東西パキスタン間の不公平はやがて、独立闘争時は考慮されなかったベンガルのナショナリズムを引き起こした。
パキスタン政府が、西パキスタンのウルドゥ語のみを国語とすると宣言した時、ベンガル語を話すバングラでは彼らの文化のアイデンティティの無視だとの反発が強まった。
バングラの言語を回復させる為の運動は、東パキスタンの自治権を拡大することへ変質した。州の自治を要求していたアワミ連盟は、1971年の総選挙で、定数313議席の内167議席を獲得し、第一党となった。この時アワミ連盟の指導者はシェイク・ムジブル・ラーマンだった。パキスタン大統領は、予想外の結果に直面し、国会を延期した。
軍部は自治拡大運動を取り締まった。ラーマンは逮捕されアワミ連盟は非合法化された。アワミ連盟の党員や1000万人の東パキスタンの人々がインドへ避難した。そしてインドに臨時政府を樹立した。
暴動やストライキが東パキスタンで起こった。バングラデシュの独立が一方的に宣言され、パキスタンは反乱を押さえるために軍隊を送った。
続いて起こった戦争は短いが血なまぐさいものだった。パキスタン軍はバングラデシュの全ての大都市を占領し、ナパーム弾で村々を焼き払い、村人たちを虐殺した。バングラディシュはパキスタンの野蛮な戦闘を非難した。
インドで訓練を受けたバングラディシュのゲリラが国境を越え、東パキスタンとインドの国境での衝突が増えた。
パキスタン空軍はインド軍に先制攻撃をかけ、インドーパキスタン間で公然とした戦争が始まった。
インド軍は国境を越え、東パキスタン内のパキスタン軍は西からインド軍、北部と東部からゲリラによって、あらゆる方角から市民によって攻撃された。
- ■バングラディシュ独立
- 11日間で全てが終わった。
1971年12月16日、バングラディシュは公式に世界139番目の国家となった。
国民的な人気を持ったシェイク・ムジブル・ラーマン指導のもとでバングラディシュの建国がなされていった。
1972年、強力な首相の権限、司法の独立、一院制の国会などを盛り込んだ憲法が制定された。
1973年3月に最初の国会選挙が行われ、アワミ連盟が政権を担った。
バングラディシュは1973〜74年、飢饉に襲われた。
1974年、 シェイク・ムジブル・ラーマンは非常事態宣言を出し、憲法を改正し立法、司法の権限を制限し、行政府の権限を拡大した。そして1党独裁システムを作った。全ての政党は解散し、バングラディシュ・クリシャ・スラミ・アワミ連盟(BAKSAL)という新党のみが残った。全ての国会議員は強制的にこの党に加盟させられた。
公約された政治改革は遅々として進まず、シェイク・ムジブル・ラーマンへの批判が高まった。
1975年8月、軍の若手将校による軍事クーデターが起こり、アワミ連盟の政権は倒された。 シェイク・ムジブル・ラーマン首相は自宅で15人の親族とともに射殺された。娘のシェイク・ハシナ(現首相)はドイツに滞在中で難を逃れた。
戒厳令が施行された。
11月にまたも軍事クーデターが起こった。陸軍参謀総長ジアウル・ラーマンが全権を握った。
1978年、ジアウル・ラーマンは5年間の任期で大統領に選ばれた。1979年2月に総選挙が行われた。ジアウル・ラーマン率いるバングラディシュ民族主義党 (BNP)が300議席のうち207議席を獲得した。
1981年、ジアウル・ラーマン大統領は軍部の反対勢力により暗殺された。
副大統領ジャスティス・アブドゥス・サッタールが大統領職を引き継ぎ、6カ月以内に選挙を行うことを公約した、サッタールは選挙に勝利し大統領となった。
1982年3月、サッタールは陸軍参謀長エルシャドによる無血クーデターで倒れた。エルシャドは国会を解散し、戒厳令を敷いた。憲法を停止し、政党活動を禁止した。
1986年1月、エルシャドは政党活動を以前のように許可し、自らの政党、国民党を作った。エルシャドは軍を退任し、10月に行われた大統領選挙で当選した。(この大統領選挙には有力野党からは誰も立候補者がでなかった) 1986年5月、総選挙が実施された。エルシャドの与党国民党はかろうじて過半数を得た。 しかし野党主導の反政府活動は活発化した。
1988年3月、総選挙がおこなわれ、国民党は300議席のうち251議席を獲得した。ただし全ての有力野党はこの選挙をボイコットしていた。
1990年中頃からゼネスト、連日の抗議集会などの人民運動が激化した。12月、独裁政治を行ってきたエルシャド大統領は退陣した。
91年2月、バングラディシュの歴史上、最も自由で公平な総選挙が行われた。野党のバングラディシュ民族主義党、アワミ連盟がそれぞれ第1党、第2党となり、与党であった国民党は第3党に転落した。
バングラディシュ民族主義党は、イスラム原理主義政党Jamaat-e-Islami (JI)と連立政権を作った。
バングラディシュ民族主義党のベグム・カレダ・ジアが初の女性首相となった。
彼女は暗殺されたジアウル・ラーマン大統領の未亡人である。
ジア首相は、大統領制から議院内閣制への移行のため、憲法改正の国民投票を行い承認された。これによって立法システムが法的に作られ、行政の権限が首相に戻った。
1991年10月、国会での選挙により新しい元首としてアブドゥル・ラーマン・ビスワスが大統領に選出された。
民主主義は再び確立され、経済は成長率4.5%で伸びた。
しかしマクロ経済の成功は、増え続ける多くの貧窮した国民を助けなかった。
バングラディシュ民族主義党とアワミ連盟の政治的対立が激化し、バングラディシュではストライキが頻発し、総選挙は何度も延期され、かじを失ったような状態が激しくなった。
1996年2月に行われた総選挙は、暴力事件が頻発し、3つの主要野党のボイコットでその価値を失った。結果は、当然のごとくバングラディシュ民族主義党の圧倒的勝利だった。
しかしその低投票率は、バングラディシュ民族主義党政府が国民の委任を受けていると見なされないことを意味し、野党はその正当性を認めなかった。ストライキや暴力事件が頻発した。
2月、ベグム・カレダ・ジア首相は辞任した。
6月12日、総選挙が行われアワミ連盟が第1党となった。この結果6月23日、アワミ連盟の党首シェイク・ハシナ・ワゼドが首相に就任した。