
1世紀から6世紀の間、クメール人のフーナン王国がカンボジアの大部分を支配していた。
7世紀になると、フーナン王国の属国だったカンブジャが、フーナンを倒し、9世紀から13世紀にかけて、アンコール・ワットに象徴されるアンコール文明を築いた。
14世紀に入ると、隣国タイのアユタヤ王朝の勢力が強まり、1434年、首都アンコールはアユタヤ王朝によって征服された。
1867年までに、フランスはベトナム南部を全て征服していた。
フランスは、1893年からカンボジアを支配した。
1945年、カンボジア国王ノロドム・シアヌークが独立を宣言した。 そして1953年11月9日、カンボジアは完全独立した。
ノロドム・シアヌークが15年間国政を支配した。
しかし1970年、ロン・ノル将軍率いる軍部により打倒された。ロン・ノル将軍を首班とするクメール共和国が成立した。
シアヌークは北京へ亡命し、そこで王国民族連合政府を作り、ロン・ノルに対抗した。
1969年,アメリカはカンボジアの共産勢力のベースキャンプにじゅうたん爆撃を行った。 この攻撃で数千人の市民が死に、カンボジアをベトナム戦争へと引きずり込んだ。
アメリカと南ベトナム軍は、ベトナム共産軍を根絶するため、1970年、カンボジアへ侵攻した。しかし成功しなかった。
しかし、カンボジアの左翼ゲリラ(クメール・ルージュ)をカンボジアの内陸部へ追いやった。
まもなく激しい戦闘が国土全土に拡がり、1975年、プノンペンはクメール・ルージュの手に落ちた。1976年、クメール・ルージュは、ポル・ポトを首相とする民主カンボジアを樹立した。
ポル・ポトに率いられたクメール・ルージュは、カンボジアの多数の国民を虐殺した。特に教育を受けた国民を。カンボジアを毛沢東主義による農民主導の農業共同組合を基礎とした国家を目指した。
1978年、ベトナムがカンボジアに侵攻した。ベトナムの支援を受けたヘン・サムリン率いるカンボジア民族救国戦線は、1979年1月、プノンペンを制圧しカンボジア人民共和国の成立を宣言した。クメール・ルージュはタイ国境のジャングルへ逃げ込んだ。
1982年7月、クメール・ルージュ、シアヌーク派、クメール人民民族解放戦線(ソン・サン議長)の3派は共闘し、3派連合政府を樹立し、ヘン・サムリン政権との内戦が続いた。
1990年9月、国連安保理は、紛争当事者4派による、最高国民評議会(SNC)の設置、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)による停戦監視および選挙実施の和平プロセス案を発表した。カンボジアの4派もこれに同意し、会談が数度に渡り行われた。
1991年10月、4派を含む関係18ヶ国が、パリ和平協定(カンボジア紛争の包括的政治解決に関する協定)に調印し、内戦は一応終結した。
1992年3月、明石康氏を代表とするUNTAC部隊が、カンボジアへ入った。
クメール・ルージュは武装解除に応ぜず、1993年5月の総選挙もボイコットした。
総選挙では、ラナリット殿下率いる民族統一戦線が第一党となった。
1993年9月24日、新憲法が公布された。カンボジアは、立憲王制となり、国王を元首とするが、権力はない。政体は、3権分立、多党制民主主義、仏教が国教となった。シアヌークが国王に就任した。
1993年11月1日、ラナリット、フンセン両氏を首相とする内閣が成立した。
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