インドネシア
歴史
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7〜19世紀
7世紀後半に、仏教国のスリヴィジャヤ王国やヒンズー国のマタラム王国などの強国がジャワやスマトラに現れた。
ヒンズー教を残した最後の重要な王国は、13世紀に創建されたマジャパイトである。
イスラム教は14世紀に各諸島に大きく広がり、15世紀にはマジャパイトをバリ島に退却させた。
15世紀までに、強大なイスラム帝国がマレー半島のマッラカの中心に発展していった。
その影響力は短かく、1511年、ポルトガルに支配された。
オランダはポルトガルに代わりインドネシアへの侵入を始めた。
1619年、オランダはジャカルタを攻撃し、制圧した。オランダはジャカルタをバタビアと改名した。
オランダ東インド会社はバタビア(ジャカルタ)に本拠をおき、香辛料貿易を支配し、ジャワ島を支配下においた。
20世紀
オランダは、20世紀初期までにアチェとバリ島を含む全諸島を支配下においた。
1928年、スカルノらによりインドネシア国民党が結成され、公然と独立を呼びかけた。
第二次世界大戦中、日本軍は1942年、諸島を占領した。
インドネシアは当初日本によって、独立が達成されることを期待した。
しかし日本の軍政は、オランダ統治時代より悲惨なものだった。強制労働により多くの国民が死に、天然資源、食糧の搾取により農業生産は低下し飢饉が襲い、餓死者が多数でた。
反乱も多発し、日本軍により鎮圧された。
日本の無条件降伏の二日後、1945年8月17日、スカルノはインドネシア独立を宣言した。しかしインドネシアの再植民地化をねらうオランダは武力で制圧しようとし、双方で戦闘が始まった。
インドネシア軍の抵抗と国際世論の非難により、オランダは植民地化をあきらめ、1949年12月、オランダのハーグにおける会議で、独立が合意された。
独立
1950年8月、完全独立が達成された。
スカルノが、大統領に就任した。
議会制民主主義の期間後、1957年、スカルノは議会を廃止し、戒厳令を宣し、政府による独裁主義的政治を始めた。スカルノはそれを指導民主主義と呼んだ。
スカルノの権力簒奪はただちに反応を引き出した。
1958年スマトラやスラウェシで反乱が起こった。そして結局鎮圧された。
スカルノの権力の強化はインドネシアの経済的苦悩をほとんど軽減しなかった。
外交では非同盟運動 彼の腐食した虚栄心は壮大な建設計画ー国家再建の妄想にすぎなかったーは人民の窮乏と鋭いコントラストを見せていた。
国連から脱退し、経済の社会主義化を計画した。
1965年9月30日、軍部共産主義グループによるクーデターが起きた。
これに対し、スハルト陸軍戦略予備隊司令官が、クーデターを鎮圧した。
これがインドネシア現代史で有名な「9・30事件」である。
このクーデター鎮圧によって、スハルトが実権を握った。
スカルノ大統領は、クーデターへの関与を疑われ、その権威は低下し、大統領職を剥奪され、1970年6月亡くなった。
1967年3月、スハルトはスカルノ大統領に代わり、大統領代行となった。
1968年、スハルトが大統領に就任した。
動乱のスカルノの時代と全く対照的に、インドネシアはスハルトの下で、西側諸国の投資や援助を求め、インドネシア経済を急速に成長させた。
しかし、1975年の東チモールへの度重なる侵略と1976年の併合、1991年の東チモールのディリでの虐殺、政権主流派の経済利権の独占、1994年6月の政府を批判した雑誌の発禁処分、これらの問題が残されている。
多くの東ティモール人とイリアンジャヤのパプア人が、インドネシア共和国への強制的な帰属を拒否し、インドネシアの占領に抵抗し続けている。