
- 1736年、サファビー朝が滅亡した。
その後イランは半世紀にわたり、混乱を極めた。
遊牧民であるトルコ系カジャール族は族長アーガー・モハンマドに率いられ、イラン各地の部族を次々と征服ていった。そして1796年、テヘランを首都とし、統一国家を樹立した。これをカジャール朝という。
カジャール朝の支配は、封建的な支配であり、中央集権的な強大な支配力を持たなかった。
第一次世界大戦に際し、カジャール朝は中立を宣言したが、オスマン帝国に敵対する帝制ロシア、イギリスは、イランに軍隊を送り、オスマン帝国に対する軍事作戦を行った。両国軍隊の駐留により、イランは事実上両国の支配下におかれた。
ロシアで起きた革命は、イランにも大きな影響を与えた。1920年、21年には地方都市に3つの革命政権が樹立された。
カジャール朝にはその革命政権を鎮圧する力はなかった。イギリスは、革命ロシアの勢力がイランに伸びるのを恐れ、陸軍将校であったレザー・ハーン・パーレビを背後で支援した。 1926年、レザー・ハーン・パーレビはイギリスのバックアップにより、軍事クーデターを起こし、カジャール朝を倒し、パーレビ朝を作った。
1935年、国名をイランとした。
第二次世界大戦ではイランは公式には中立であった。
しかしレザー・シャーは南アフリカへ亡命せざるを得なかった。あまりに枢軸国に対して友好的すぎると考えられたからだ。
当時22歳だったムハマンド・レザーが彼の跡を継いだ。
ムハマンド・レザーの下でイランは急速に近代化した。識字率は飛躍的に増加し、女性は解放された。土地は再分配され、保健衛生は改善され、工業化が進んだ。しかし彼の政権は抑圧的だった。
1974年の石油危機により、イランは莫大な石油収入を得た。それがシャー(ペルシャの王の称号)の破滅の始まりだった。石油収入は、不適切な開発計画に使われ、逆にインフラ建設は滞った。大多数の人間は亢進するインフレにより以前よりも貧しくなった。シャー一族や政府高官は巨額な富を得、収賄がはびこった。アメリカは、大量の武器をイランに売りつけた。シャーの著しい対米依存は、イラン国民にシャーへの反感とともに、アメリカへの反感をつのらせた。
パーレビ朝の最初から、くすぶっていた反対は時には暴力となった。
学生は性急な改革を望み、頑固なイスラム教徒は改革を元に戻すことを望んだ。すべてがパーレビの贅沢を攻撃した。
経済は、オイルブーム以後の国王の政策の失敗により、ますます悪化した。
反対はますます大きくなりサボタージュや街頭での大規模なデモが起こった。
国王は徹底的に反対派を弾圧した。
ホメイニが最初に一般の注目を集めたのは、1962年だった。聖職者の財産権を減らし、女性の解放を進めるというシャーの計画に反対したときだった。アヤトラ・ホメイニは国王に対する反対派の指導者として次第に認められるようになった。
1963年、シャーの土地改革政策、アメリカ、イスラエルよりの外交政策に反対する大規模な反政府デモが起こり、約3000人が殺され、その指導者と見られたホメイニは数カ月拘禁された。
1964年、彼は国外追放されトルコへ行った。
しかしイラクへ追いやられ、ここで14年間亡命生活を送った。
イラクのフセイン大統領は、イランのシャーの要請によりホメイニを国外追放にし、1978年、ホメイニはフランスへ向かった。
1970年代後半には、シャーの王朝を救おうという試みはますます絶望的になり、アメリカは援助をためらいだした。
1978年、反政府暴動は全土に広がった。
1978年11月、シャーは戒厳令を出し、テヘランでは何百人ものデモ隊の人々が殺された。
シャーはついに1979年1月16日、国外へ脱出した。亡命中、シャーは国から国へ移り、1980年エジプトで亡くなった。
アヤトラ・ホメイニは2月1日、何百万人もの崇拝者たちに迎えられイランへ帰国した。
同月、革命評議会が設置された。4月、国名をイラン・イスラム共和国と改めた。
ホメイニは、アメリカを大サタン、ソ連を小サタンと呼び、「西でも東でもない、イスラム共和国」というスローガンのもと、どの勢力にも与しないことを明らかにした。そしてイスラム革命の輸出を宣言した。
1979年11月4日、テヘランのアメリカ大使館がホメイニ支持のイスラム学生たちに占拠された。学生達は、大使館員52名を人質にとった。大使館員達は444日の間、監禁された。
イラクとの関係は、イスラム革命の当初は良好だった。しかし1980年、イラク国内で政府高官に対するテロ計画が相次ぎ、急速にその関係は悪化した。
1980年9月22日、イラクはイランの主要軍事施設を爆撃した。本格的なイランーイラク戦争が始まった。8年間の戦争の後、1988年に停戦が実現した。
1989年6月4日、ホメイニは亡くなった。アヤトラ・アリ・ハメネイがイランの最高指導者として指名された。1989年8月、ラフサンジャニが大統領に選ばれた。ラフサンジャニは政治的には穏健派と言われている。