レバノン
歴史
16世紀から、レバノンは、オスマン・トルコの支配下にあった。
第一次世界大戦後、オスマン・トルコの崩壊により、1920年、レバノンはシリアの一部として国際連盟の委任統治領という形で、フランスの統治下に置かれた。
第二次世界大戦中の1943年に、実質的に独立国としての構造ができ上がった。
1945年、正式に独立国となった。
レバノンはその戦略的な位置と、国内の安定、そして親ヨーロッパ的な政府の存在により、多くの多国籍の企業がオフィスをベイルートに置いていた。
しかしレバノンには国家の構造に致命的な欠陥があった。レバノンでは、大統領とレバノン軍司令官をマロン派キリスト教徒、首相をスンニー派イスラム教徒が担当し、シーア派イスラム教徒には名誉職的な国会議長が与えられた。国会議員の割り当ては、キリスト教徒:イスラム教徒=54:45であった。
しかし公務員、国軍、私営企業においてでさえ、イスラム教徒に対する差別待遇が存在していた。権力はキリスト教徒が握り、半分近い人口のイスラム教徒は政治からも排除されていると感じていた。
独立当時少数派であったシーア派イスラム教徒は、出生率の高さも相まって次第に多数派を占めるようになってきた。1970年代には、イスラム教徒の人口は、キリスト教徒をはるかに越えていた。
1948年のイスラエル建国宣言とそれに伴い周辺アラブ諸国との間で起こった第1次中東戦争により、イスラエル軍に追われ難民となったパレスチナ人は、レバノン、ヨルダン、シリアへ避難した。レバノンへ避難したパレスチナ人は、当初ベッカー高原、ついでバイルートのパレスチナ難民キャンプへ住んだ。レバンンのパレスチナ難民は約30万人といわれる。1970年までヨルダンを本拠地としていたパレスチナゲリラは、ヨルダン政府により国外に追放された。「ブラック・セプテンバー」と呼ばれる。彼らが移動したのはレバノン南部だった。ここを本拠地とし、パレスチナゲリラはイスラエルに対し、ゲリラ攻撃や、ロケット砲による攻撃を行った。 1975年、マロン派キリスト教民兵によるパレスチナ難民への攻撃をきっかけとして、各地で衝突が起こり、イスラム教徒とキリスト教民兵の間の全面的な内戦へと発展した。
1976年4月、シリア軍が、レバノン大統領スレイマン・フランジェの要請により、介入した。シリア軍によって、取り敢えず停戦が実現した。
1978年3月、イスラエル軍がレバノン南部、国境から数十キロ侵攻した。代理軍としてキリスト教徒のレバノン軍将軍を司令官とした南レバノン軍(SLA)を設立した。それは国境を越えて攻撃を掛けてくるPLOからイスラエル北部を守るためだった。
国連の圧力により、イスラエル軍は3カ月後に撤退した。その地には国連平和維持軍(UNIFIL)が展開した。
一方ベイルートでは、イスラム教徒とキリスト教民兵が、兵力を増強していた。政治的解決策は全くなく、戦闘はシリア軍の介入によってのみ止められた。
1982年、イスラエル軍は再びレバノンに侵攻した。 今回の目的は、PLOを壊滅させる事だった。イスラエル軍はベイルートを包囲した。そして7週間、西ベイルートのPLO本部などパレスチナ・ゲリラを徹底的に攻撃した。
8月、アメリカによる調停が成立した。PLOの幹部、戦闘員は他のアラブ諸国に避難した。これによりレバノンでのPLOの影響力は壊滅した。アメリカとヨーロッパの多国籍軍(MNF)はパレスチナ人とイスラム教徒市民を守るためにベイルートに展開した。
PLO撤退の数週間後、キリスト教民兵の指導者であり、レバノンの大統領当選者バシール・ジェマイールが暗殺された。その暗殺後、イスラエル軍は西ベイルートに入った。2日後、イスラエル軍にバックアップされたキリスト教民兵は、西ベイルートにある難民キャンプのパレスチナ人たちを虐殺した。
ジェマイールの弟アミンが大統領に当選した。
1年後、イスラエル軍はレバノン南部へ撤退した。その直後、イスラエル保護下にあったベイルートの東で、ドゥルーズ派イスラム教民兵とキリスト教民兵が戦闘を始めた。同時にレバノン軍とイスラム教民兵が、首都で戦闘を始めた。MNFは攻撃に曝され、多数の死傷者を出した。MNFは1984年前半、撤退した。
1985年中頃、イスラエル軍は国境沿いに幅約60kmを確保して撤退した。
この後2年以上、キリスト教民兵とイスラム教民兵との戦いは続き、イスラム原理主義者による外国人の誘拐が相次いだ。
首相セリム・アル・ホスの要請により、シリア軍が再び西ベイルートに入った。シリア軍は次第にイスラム地区を支配下に置いていった。
1988年9月、任期満了にともないジェマイール大統領は、首相に同じキリスト教徒のミッシェル・アウン将軍を指名した。
一方レバノンの多数の国会議員たちはサウジアラビアのタイフに集まり、アラブ諸国が仲介した「国民和解のための合意」に調印した。
1989年、国会議員たちは選挙により新しい大統領を選出した。ルネ・ムアマドである。しかし彼は当選17日後、暗殺された。エリアス・ハラウィがかわって大統領となった。彼は穏健なマロン派キリスト教徒で、シリアとも友好関係を持っていた。
アウン将軍は新大統領を認めず、レバノンのシリア軍に対して戦闘を始めた。激しい戦いの後、アウン将軍は敗れ、1991年8月、フランスへ亡命した。 シリアの協力を得て、ハラウィとレバノン軍はベイルートに秩序をもたらし、1991年後半にはレバノンの大部分にその勢力を展開した。
南部レバノンを除き、一応の和平が実現した。 1991年、16年間に亙る内戦を行った大部分の民兵組織は禁止された。
1992年8月、この20年間で最初の選挙が行われた。シーア派イスラム原理主義者グループ、ヒズボラは14議席を獲得した。
1993年7月、ヒズボラの攻撃によりイスラエル兵7人が死んだ。イスラエルはレバノン南部の80以上の村を攻撃し、死者113人、30万人以上が避難した。この攻撃はアメリカの干渉により中止された。 94〜96年にも、イスラエルに対するヒズボラの攻撃が何度も行われた。