

- ■18〜19世紀
- 1507年、ポルトガルがオマーンを占領した。彼らは一世紀以上もオマーンを支配した。
1650年、イマーム・スルタン・ブン・サイフがポルトガル軍を駆逐した。オマーンの独立は通常この時とされる。
オマーンはアラブ世界では、もっとも早く独立を遂げた国である。
マスカットの奪還によりオマーンは勢力を広げた。オマーンの商人は東アフリカ沿岸に植民地を建設し始めた。これによりオマーンの経済力は他のアラブの首長が太刀打ちできないほどになった。
18世紀終わりまでに、オマーンはある種の帝国を作り上げた。その絶頂は19世紀だった。オマーンはモンバサとザンジバルの両方を支配し、アフリカ沿岸にまで貿易を支配した。現在のパキスタンやインドの一部をも支配した。
1749年、現在の王家の始祖であるアフマド・ブン・サウドがイマームに選ばれた。
1786年、海洋貿易はますます増えていた。そのため、首都を内陸部からマスカットへ公式に移した。そのころブサイド家はスルタンの称号を採用した。ある意味ではイマームの宗教的な称号が持たない現世の称号を意味する。
オマーンは19世紀中頃、サイード・ブン・スルタンのもとで絶頂期を迎えた。
彼が死んだとき帝国は二人の息子に分割された。
1人はザンジバルの首長となった。
もう1人は、二つの分割された領土として考えられていた沿岸部マスカットと、内陸部オマーンのスルタンとして知られるようになった。
マスカットでは首長の権威は絶対だったが、内陸部ではしばしばイマームと権威を分割された。イマームの権力は宗教的なものに限られていたが、次第に沿岸部に対する内陸部の政治的利害を代表するようになっていった。首長の命令は内陸部奥部にはほとんど伝わらなかった。
サイードが亡くなった後の領土の分割により、マスカットはもっとも利益の上がる領土を失った。そして19世紀後半には不景気に落ち込んだ。加えてイギリスが首長に、奴隷と武器の売買を止めるように圧力をかけ、経済はより悪化した。首長は貧しくなり、内陸部の支配が困難になった。これはまた首長に対するイギリスの影響力を増やした。首長の補佐官の多くはイギリス人であり、軍はイギリス将校によって指揮されていた。
- ■20世紀
- ファイサル・ビン・トゥルキ首長が1913年死んだ時、国内の各部族は息子のタイムール・ビン・ファイサルをイマームと認めることを拒絶した。
1915年まだ首長の支配力は薄く、緊張が高かった。その時いくつかの部族がマスカットを占領しようとした。しかしイギリスにより撃退された。 1920年までこの状況は解決されなかった。
1920年、スルタンとイマームは条約に調印した。この条約で、スルタンはイマームを宗教上の指導者と認め、スルタンの主権を彼に公式に譲渡すること無しに国内の限定された現世の支配権を許した。35年間この条約はこの二人の指導者の間の主たる関係となった。
1938年、新しい首長にサイド・ブン・タイムールが就任した。彼は50年代初頭、権力を内陸部に及ぼそうとしたが、イギリスに妨げられた。主な理由はそこに石油があるとイギリス人たちは信じていたからだ。軍事行動の代わりに、カイロでのアラブ連盟会議が舞台となった。イマームは内陸部を別の国であると認めさせようとした。
1954年、タイムールは、サウジアラビアとの領土争いでイマームはサウジ側だと結論した。タイムールの軍隊は内陸部へ侵攻し、1955年制圧した。アラブ連盟の参加国はイマームに同情的だったが誰も助けなかった。反対にイギリスは内陸部の石油利権と引き換えに、タイムール側についた。 タイムールは内陸部すべてを併合した。
タイムールは、どんな種類の変化にも反対した。そして鎖国政策によりオマーンを現代世界から孤立させた。彼の支配の下、わずか一世紀前は、ヨーロッパの帝国主義者たちのライバルだった国は、時代錯誤の中世的世界に逆戻りした。
タイムールはすべてのビザをみずから発行した。彼は教育に反対した。それは彼の権力を脅かすと思われたからだ。
大部分のオマーン人は国をでることを許されず、どうにかして出国したものは、帰国を許されなかった。
肯定的に見ると、オマーンの対外債務を解消し、国内を比較的安定させた事だった。
タイムールは外部の世界とほとんど交渉を持たなかったが、イギリス人顧問と幾人かのマスカットの貿易商一族とは数少ない接触を保った。タイムールは幾人かの貿易商に、いくつかの商品の輸入に対して莫大な利益の上がる独占権を与えた。代わりに貿易商たちは政治に関与せず、タイムールが進歩的または西洋的(メガネ、ラジオ、本など)と感じたものを輸入しないということに同意した。
1958年、タイムールはサラーの宮殿に移り住んだ。その後、彼はほとんどそこからでなかった。
1970年7月、タイムールは彼の1人息子カブースによって、無血革命によって打ち倒された。 この革命の背後にはイギリスがいたとの話もある。タイムールは余生を亡命先のロンドンのホテルで過ごした。
カブース・ビン・サイド・アル・サイドは権力についたときまだ30歳だった。彼は教育を海外で受けていた。彼は帰国してから約6年間、サラーに自宅軟禁されていた。
権力を獲得した彼はただちに彼の父の圧政的な社会の制限を廃止し、オマーンの半封建的な経済を現代化し始めた。国を近代化するカブースの計画は、たしかに緊急事だった。オマーンの石油収入は少なく、埋蔵量も限られていた。他の湾岸諸国より急激に近代化を図った。
71年10月、オマーンは国連に加盟した。