

- ■紀元前
- 紀元2500年頃より、インダス川の広大な流域に高度な文明が栄えた。インダス文明である。
紀元前1500年頃、中央アジアの草原地帯から移動したアーリア人がインド亜大陸へ侵入した。そして、インダス文明を築いた先住民を征服し定着していった。
彼らアーリア人は、紀元前9世紀までにはパキスタン、インドの北部に広がった。
彼らの宗教ははヒンズー教の前駆者であり、彼らの厳しい労働の分担は初期のカースト制度の萌芽であった。
紀元前6世紀頃より、アケメネス朝ペルシャがインダス河流域を支配していた。
紀元前327年、アレキサンダー大王がペルシャ帝国を打ち破り、ヒンズークシ山脈を越え、ペルシャ帝国の残存兵を討ち滅ぼすためにやって来た。
彼の滞在は短かったが、今でもいくつかの部族には彼らがアレキサンダーやその軍隊の子孫だと主張する伝説が残っている。
後にシルクロードの全盛期がやって来た。中国、インドおよびローマ帝国間の貿易が行われた。
クシャン朝はシルク貿易の中心にあり、ガンダーラ地方(現在のペシャワール周辺)にクシャン朝の首都を築いた。
- ■2〜15世紀
- 紀元2世紀までに、クシャン朝は最盛期を迎え、領土はイラン東部から中国辺境および南はガンジス河まで拡大した。
クシャン朝は仏教国であり、カニシカ王の下で数千の僧院やストゥーパが建てられた。
まもなくガンダーラは貿易と宗教的な学問と仏教徒の聖なる土地として巡礼する場所となった。
ガンダーラ地方を中心に栄えたのでガンダーラ美術と言われる。
クシャン朝は4世紀までに分裂した。後にササン朝ペルシャ、グプタ王朝、中央アジアからのエフタルの侵略、これに続いて突厥がインダス河を流域を支配した。
10世紀に入るとアフガニスタンに成立したトルコ系のガズニ朝が勢力を拡大し、インダス河流域を支配した。 - ■16〜19世紀
- 次の強大な国家は16、17世紀に君臨したムガール帝国である。その創始者バブールはティムールの子孫である。
その最盛期には、ムガール帝国はカシミール、アフガニスタン、アラビア海からベンガル湾に至るまでの北部、中部インド全域を支配下においた。
イギリスは、1613年、ムガール朝よりインドのスラットに商館建設の許可を得て以来、インド亜大陸で勢力を次第に伸ばしていた。
1799年、シーク教徒ランジット・シンはラホールの統治を譲渡された。 彼は数十年をかけ、ここを基盤に自国の強化を図った。「聖なる兄弟」という宗教的結社をインド亜大陸で最も恐るべき軍に作り上げた。
彼はイギリスと互いに領土不可侵の協定を結んだ。
しかし1839年の彼の死と後継者の条約違反は、シーク教徒を戦争へと投げ込んだ。
1845〜46年、1848〜49年の2度にわたるシーク戦争が起こった。 イギリスはその戦争で勝利し、カシミール、ラダー、バルチスタン、ギルギットを併合し、それらを、ジャンムー・カシミール国と名づけた。こうしてイギリスはロシアの領土拡張主義への緩衝国を北西部に作り上げた。これはいまだインド亜大陸の最も扱いにくい災いになったものを作り上げた。 1848〜49年のイギリスに対しての二度目の戦争は、帝国を崩壊させた。1850年代に、イギリスはパンジャブとシンドを併合した。
1858年、ムガール帝国は滅亡し、イギリスの直接統治が始まった。 - ■20世紀
- 19世紀後半、イギリス領インドでは国民の民族意識が高まっていた。
1906年ムスリム連盟が、イスラム教国家の独立を要求するために設立された。
しかし完全にイスラム教の母国の分離が提案されたのは、24年後のことだった。ほぼ同じ頃、イギリスのイスラム教徒の亡命者がパキスタンという名前を作った。「Land of the Pure」という意味である。
ヒンズー教徒とイスラム教徒の間の暴力は、1940年代中頃エスカレートし、イギリスは、イスラム国家を分離させることは避けられないと認めた。新しい総督ルイス・マウントバッテン卿は、1948年6月までに独立させることを宣言した。
イギリス領インドは、インドと言う名前を維持した中央部の主としてヒンズー教徒地域とイスラムの東西パキスタン(東パキスタンは現在のバングラディシュ)に分けられた。
国境線の宣言は、膨大な数の移住を引き起こした。
- ■パキスタン独立
- カシミール(ただしくはジャンムー・カシミール国)は、インドおよびパキスタンの一部となることを望んではいなかった。
インドとパキスタンは軍隊を送り、二国間で戦闘が起こった。
1949年、国連は停戦を調停し2国にそれぞれカシミールを分配した。しかし結局なお国境は明確でないまま残された。
イスラム教徒の独立運動を指導したアリ・ジンナーは、パキスタンの最初の総督となった。しかし彼は独立の約一年後亡くなった。
副首相で彼の友人だったカーンが彼の跡を継いだ。しかし3年後、暗殺された。その後、総督と首相の不和と厳しい経済不振の混乱が続いた。
1956年、憲法が採択され、パキスタンはイスラム共和国となった。西パキスタンは 東パキスタンと一つの国家を作った。
その2年後、パキスタンの政治に広まった口論と日和見主義に飽き飽きしたイスカンダル・ミルザ大統領は憲法を廃止し,政党を禁止した。そして戒厳令を宣言した。国家としてのパキスタンはそれ以来、別のものに変わった。
1965年、1971年、インドとの戦争が起こった。
1971年の印パ戦争は、東パキスタン独立にインドが協力して起こった。
1971年12月16日、東パキスタンは独立し、バングラディシュとなった。
1977年7月、ブット首相の右腕、ムハマッド・ジアウル・ハク陸軍参謀長が、軍事クーデターによって権力を得た。ズルフィカル・アリ・ブット首相は処刑された。
ハクは、1988年8月、飛行機事故で亡くなった。
総選挙が行われ、パキスタン人民党が第一党となった。これにより、大統領はイスハク・カーンが就任し、首相としてブット元首相の娘ベナジルがイスラム国家で最初の女性首相となった。
しかし1990年8月、カーン大統領によって彼女は解任された。
1990年10月、ナワズ・シャリフが首相に就任した。
1993年4月、カーン大統領はシャリフ首相を解任した。
しかし政局は混乱し、93年7月、大統領、首相ともに辞任した。
1993年10月6日、総選挙が行われ、パキスタン人民党が勝利し、党首ベジナル・ブットは首相へ復帰した。
94年に入ると与野党の対立が深まった。
またカラチではムハジール民族運動(MQM)の武装勢力によるテロ、暴力行為が頻発するようになった。モハジールとは、1947年のインド・パキスタンの分離独立後に、難民としてインドからパキスタンに流入してきたイスラム教徒である。彼らの多くがカラチなどのあるシンド州に住み、カラチでは総人口の約60%がムハジールだと見られている。シンド州の民族シンディがシンド語を話すのに対し、ムハジールはウルドゥ語を話す。ムハジールは、独立州の設置、連邦政府、州政府などへの職員採用枠の設定などを要求している。
カラチの治安悪化は、パキスタンの経済へ大きな影響を与えており、外国からの投資の中止、工業生産の低下などを招いている。
またパキスタンでは、アフガニスタン難民などによるヘロイン生産・密輸が急増し、麻薬常習者も急増している。