フィリピン
歴史
16〜19世紀
1521年、フェルディナンド・マゼランがフィリピンに到着した。マゼランは、地元民に殺された。
1543年、ルイ・ロペス・ドゥ・ビラロボスがやって来た。そしてスペインのフィリップ2世にちなんでその土地をフィリピナスと名づけた。1565年スペインの占領が始まり、1572年、イスラム教のスールー諸島を除く全フィリピンがスペインの支配下になった。
フィリピンの独立運動は19世紀に育った。そしてフィリピン人は1898年の米西戦争では、アメリカ側で戦った。
スペインが敗れたとき、アギナルド将軍はフィリピンの独立を宣言した。しかしアメリカは他の計画を持っていた。
即座にスペインから2000万ドルでフィリピンの諸島を買った。
20世紀
1902年より、アメリカは本格的にフィリピンを統治した。
アメリカはフィリピンの独立への希望を最終的には認めた。
1935年、完全独立までの過渡期の段階 の一部として、マヌエル・M・ケソンがフィリピン・コモンウェルス政府(フィリピン独立準備政府)の大統領として宣誓した。
1941年12月8日、真珠湾攻撃の直後、日本軍はフィリピンを攻撃した。
1942年5月6日、日本軍はフィリピンを完全に制圧した。
日本軍は、フィリピン軍、アメリカ軍、フィリピン難民約8万人を捕虜として、水も食糧も与えず、約80km徒歩で移動させた。これが「バターン死の行進」である。これにより約8000人が死亡した。 日本軍との戦闘での死者や、虐殺された市民は、100万人以上であった。 2年後の1944年、マッカーサー率いるアメリカ軍は、レイテ島に上陸し、フィリピン各地で日本軍を攻撃した。1945年7月5日、アメリカ軍を中心とする連合軍、フィリピン・ゲリラは、日本軍を撃破し、フィリピン全土をほぼ制圧した。
1946年、フィリピンは完全な独立を獲得した。
フェルデナンド・マルコスは、1965年大統領に選ばれた。1972年、戒厳令を布告し、反対派を弾圧し、1986年まで独裁者としてフィリピンを支配した。
1983年、マルコスの反対派として著名だったベニグノ・アキノの暗殺は、膨大な反政府抗議運動を引き起こした。
1986年の選挙で、野党はアキノの未亡人コラソン・アキノの周りに終結した。選挙後、与野党双方が勝利を宣言した。しかしアキノが大部分の票を得たと広く信じられた。コラソン・アキノを支持し、マルコスに対する大規模な市民の抗議運動が起こった。これによりマルコスは国外へ亡命する結果となった。
アキノはフィリピンの民主主義体制を再確立させた。
フィリピンでのアメリカの軍事的な影響力は、1991年のピナツボ火山の噴火によりアメリカ軍のクラーク空軍基地が使用不能となり、その後フィリピン上院が、スービック湾海軍基地の供与を批准することを拒否したことにより減少した。
アキノ時代、6年間で7回の軍事クーデターが起こった。アキノ大統領は、経済問題の解決、軍部反対派との政治的解決は図れなかった。
1992年、大統領選挙が行われ、アキノ政権の国防相フィデル・ラモスが、大統領に就任した。ラモスは、エネルギー問題を解決し、経済を活性化した。また、共産党ゲリラや、軍部の不満を押さえ、政治的安定を確保した。
1995年5月8日、中間選挙が行われた。上院の半分、下院の5分の4、また地方議員や知事、市長村長などの選挙であったが、ラモス大統領の与党が大勝利を治めた。