カタール
歴史

18〜19世紀
カタールは18世紀中頃、サーニ一族によって統治されていた。当時カタールはすでに真珠の中心地として知られていた。その中心は、島の北西部にあるズブラだった。
現在の首都ドーハは、当時さほど重要な貿易港ではなかった。19世紀から20世紀初頭には、カタールは他の沿岸諸国と同じく、非常に貧しかった。
20世紀
1915年、カタールの首長は、ドーハに基地をおいていたトルコの守備隊を追い払った。ドーハのトルコ軍はカタール首長にとってアラビア東部の各部族に対しての後ろ盾だったが、その存在は、弱点でもあった。第一次世界大戦でトルコとイギリスは敵であり、イギリスは湾岸の他の諸国を管理下においていたからだ。
トルコ軍を追い払った後、カタール首長は、イギリスと保護条約を結んだ。これはカタール首長がイギリスの許しなく他の外国勢力と交渉しない代わりに、イギリスがカタールの防衛をする、というものだった。
1916年にかわされた条約は、新たな条約が結ばれた1934年まで続いた。
カタールの生活は、1930年頃の真珠市場の崩壊以前でさえ厳しかった。貧しさ、飢え、栄養失調、病気が広がっていた。
首長は、1930年代初期にやってきた石油の採掘者を歓迎した。石油採掘権が1935年に与えられた。1939年、油田が発見された。しかし、第二次世界大戦により、生産が始まったのは10年後のことだった。
1949年、アリが首長となり、カタールの最初の石油ブームがやって来た。最初の歳入の大部分は学校、病院、道路など現代生活の基礎を確立するのに使われた。
この時の、政府のキーパーソンは、ハリファ・アル・サーニだった。アリ首長は毎日の政府の職務にほとんど興味を持たなかった。その結果、1950年代半ばまで、アリの甥であるハリファが、ほぼ国を運営した。1960年のはじめにアリ首長は退位し、息子のアフマドに首長を譲った。しかし新しい首長もまた父と同じく政務に興味を持たなかった。アフマドの即位のとき、ハリファは副首長および首相となった。
イギリスが、1971年終わりまでにその地域から撤退すると公表した時、カタールはバーレーンおよびトルーシャルオマーン(現在のUAE)と連邦結成の交渉を行った。バーレーンがその交渉から手を引くと、カタールもそれに倣い、ただちに1971年9月1日、独立を宣言した。その6カ月後、ハリファは宮廷革命により権力を手中にした。アフマッドの追放は彼が信頼を失っていた為、支配一族の幅広い承認を得た。いずれにしても15年以上、ハリファは、肩書きを除きすべての面でカタールの実権を握っていた。
ハリファの宮廷革命以来、カタールは国内的にはおおむね政治的安定を保ってきた。
対外的には、その地域の動乱に影響されている。湾岸の他の小国と同じく、イランでの1979年のイスラム革命は政府に衝撃を与えた。シーア派原理主義者たちの反政府運動が近年起こっている。
また、バーレーンとの領土問題も解決していない。
1995年6月、ハリファ首長がヨーロッパ外遊中、長男ハマド皇太子による無血クーデターが起こった。それにより、ハマド皇太子が首長に就任した。