サウジアラビア
歴史

18世紀
18世紀初頭、サウド一族は、リヤドの近くにある小さなオアシスの村ディリヤの支配者だった。
当時、アラビア半島はトルコ人のオスマン帝国に支配されていたが、アラブ世界では、オスマン帝国に対する反発が強まっていた。その中で、ムハンマド・ブン・アブド・ワッハーブによる、イスラム復古主義運動が起こった。それはコーランとスンナを堅く守り、教えからの逸脱を許さないというものだった。その結果、彼は迫害され、サウド家のムハンマド・ブン・サウドが統治するディリヤに保護された。そして二人の間に同盟関係が生まれ、これがサウジアラビアの基礎となった。ムハンマド・ブン・サウドは軍事・政治を、ムハンマド・ブン・アブド・ワッハーブは宗教面を担当した。
19世紀
1800年代初期には、サウド一族はアラビア半島の大部分を支配していた。これはオスマン・トルコに警鐘を鳴らし、アラビア半島に軍隊を送った。オスマン帝国はディリヤを占領し、サウド家の最初の統治は1818年に終わった。
1824年には、サウド一族は中央アラビアの政治権力を奪還した。ディリヤの近くの新しい首都リヤドから再びその地域を支配した。1865年に長い部族戦争が始まった。1891年、オスマン帝国に支援されたラシード家が勝利し、サウド家は亡命へ追いやられた。彼らは現在のクウェート近郊に亡命した。
20世紀
1901年、アブドゥル・アジズ・ブン・アブドゥル・ラーマン・アル・サウドは、21歳の時、クウェートから領土回復を期して帰還した。彼は、1902年ラシード家からリヤドを奪回した。
彼らは、湾岸地域に移動した。そして1912〜13年、アル・ハサ・オアシスからオスマン帝国の守備隊を追い払った。しかしそこから西にはむかえなかった。湾岸の部族はイギリスの保護下にあったからだ。イギリスの警告を受け、アブドゥル・アジズは現在のサウジアラビアの西部地域へ方向転換した。西部地域にはヘジャズ王国があった。ジェッダは1925年に包囲された。翌月、アブドゥル・アジズはヘジャズ王の称号を公式に譲られた。
サウジアラビア建国
1932年9月23日、二つの王国は統一され、イスラム国家としてサウジアラビア王国と名づけられた。国語としてアラビア語、憲法としてコーランが選定された。
1938年、石油がサウジアラビアで発見された。しかし第二次世界大戦により生産を中止せざるを得なかった。しかし戦争後1950年までには、サウジアラビアのロイヤリティは毎週約100万ドルに達していた。1960年までには、サウジ政府の収入の81%が石油から来ていた。
アブドゥル・アジズは1953年に亡くなった。
彼の息子サウドが王位を継承した。サウドは、濫費を始めた。そしてやりすぎるようになった。
1958年3月、一族は彼に王位以外の権力を、その時外務大臣だった彼の弟ファイサル皇太子に譲らせた。ファイサルはただちに国家行政を近代化し、王国の財政に秩序を取り戻そうとした。しかし表看板としてのサウドの考えは彼とサウジ王家が持っていた概念と一致しなかった。
1960年12月、サウドは権力を取り戻し、ファイサルは首相を辞任した。サウドは健康を害していたが、以前の使い放題のやり方に戻った。1964年11月3日、長い争いの後、一族はファイサルに味方しサウドを退位させた。
国王としてのファイサルの最初の行動はサウジアラビア内の奴隷制度の最終的な廃止であった。 11年に渡る彼の在位は、王国が近代国家へと移行する長い道のりであった。
60年代に蓄積された富は、サウジアラビアの政治的影響力を増大させた。1967年中東戦争の間、サウジアラビアは他のアラブ産油国とともにアメリカ、イギリスに対して石油の輸出をストップさせた。そして1973〜74年には石油輸出禁止の中心となった。石油輸出禁止に続いて、石油価格は4倍にもなった。ファイサルはOPECの石油生産量の30%と非共産圏の石油埋蔵量の35%をコントロールしていた。サウジアラビアは世界の一勢力としての政治的地位を確立した。
1973年から78年の間の石油収入は、年間43億5000万ドルから360億ドルへ急増した。
1975年、ファイサル国王は甥のファイサル・ブン・ムサイドによって殺害された。
ファイサルの異母弟ハリド皇太子が王位を継いだ。70年代後半、膨大な石油収入による開発計画が推進された。それにより多数の外国人がサウジアラビアに入ってきた。開発計画による利権はまた王族の腐敗、汚職を生み出し、一部部族や低中産階級の不満を表面化させ始めた。 1979年11月20日、メッカのグランド・モスクが急進派によって占拠された。国王は10日後、鎮圧部隊を突入させ、モスクを鎮圧した。この事件により250人以上が亡くなり、逮捕された63名は6週間後、処刑された。
ハリド国王は、1982年6月亡くなった。彼の異母弟でアブドル・アジズの4男であるファハドが国王となった。ハリドの健康がすぐれない為、ファハドは長らく皇太子として国政を指揮していた。
1979年のイラン・イスラム革命より、イランとの関係は緊張していた。1987年、イランからの巡礼者たちはメッカでデモンストレーションを行い、詳細は諸説あるが、官憲との衝突で少なくとも400人が亡くなった。大部分がイラン人だった。その後数年、イランはメッカへの巡礼をボイコットした。
1990年イラクのクウェート侵攻は、サウジアラビアにイラクの次のターゲットではないかとの危機感を高まらせた。サウジアラビアはアメリカに軍の派遣を要請し、最大時で50万人以上の軍が駐留した。
1995年秋、ファハド国王は病で倒れ、1996年1月1日より、アブドラ皇太子が政務を取ることとなった。
1996年2月21日、ファハド国王は健康が回復し、政務に戻ると発表した。