シンガポール
歴史

〜19世紀
マレーの伝説によると、スマトラの王子がトゥマセ島で一匹のライオンと出会った。それは良い前兆と考えられた。彼はこの島をシンガプラ、「Lion City」と名付けた。
ライオンはシンガポールに住んでいたことは決してない(王子が虎を見たということの方がありそうだが)。
スマトラのシヴィリジャヤ王国の小さな貿易港として、後には13世紀中頃、ジャワのマジャパイト王国の家臣国として地域に設立された。
1511年、ポルトガルがマラッカを攻撃し、14世紀末から繁栄していたマラッカ王国を滅亡させた。ポルトガルは、マラッカを支配し、マラッカ海峡を通る貿易船から税金を取り立てた。
マラッカ王国の王族たちは、ジョホール州などに逃れ、後継王朝を築いた。シンガプラ島は、ジョホール王朝の支配下にあった。
1602年、オランダは東インド会社を作り、東洋貿易に乗り出した。
1641年、オランダはマラッカを攻撃し、ポルトガルから奪い取った。
この地域の東洋貿易は、オランダが主導権を握るようになった。
18世紀後半から、イギリスでは中国のお茶の需要が激増していた。
19世紀
1819年、スタンフォード・ラッフルズがシンガポールに上陸したとき、この島は小さな漁村だった。
18世紀、東インド会社が中国からインドの植民地への貿易ルートを確保し防衛するために、マレー半島付近に貿易船の寄港地を必要とした。 ラッフルズはこの地を治めていたジョホール王朝と交渉し、シンガプラ島にイギリスの商館を建設することを承認させた。 イギリスは初めてマラッカ海峡に勢力を確立した。
オランダは200年近くもこの地域でのヨーロッパの東洋貿易を支配していた。
オランダの領土拡張主義復活を恐れ、ラッフルズはイギリスのプレゼンスの増大を主張し、それはすぐに与えられた。
オランダは、マラッカのすぐ南部へのイギリスの進出に反対し、イギリスと外交交渉を行った。その結果、東南アジアにおける両国の植民地の勢力範囲が確定された。
1824年、英蘭協定が結ばれ、マレー半島のマラッカとスマトラのイギリス領が交換された。
マレー半島、シンガプラ島はイギリスの勢力下に入った。
非関税港の魅力に引かれた移民はが何千人と流入し、軍事、海軍基地とともに植民地が作られた。
シンガポールは貿易自由港として発展した。
イギリスは1832年、ペナン、マラッカを加え直轄植民地の首都にシンガポールを定めた。
1867年には、イギリス植民地省の直轄植民地となり、マレー半島の植民地の中心となった。
20世紀
シンガポールの発展は、20世紀に入っても続いた。しかし、第二次世界大戦の勃発で、残忍にイギリスの力の誤った考えが暴露された。
1942年2月15日、マレー半島を南下した日本軍はシンガポールを陥落させた。日本軍は、中国系住民を抗日分子として虐殺した。その数は5万人とも言われる。
1945年、日本の降伏の後、イギリス軍はシンガポールへ復帰した。
しかし彼らの統治の権利はもはや保証されなかった。
1946年、シンガポールはマラヤ連合から分離され、イギリスの直轄植民地となった。
1950年代までに、シンガポールはゆっくりと自治に向かって進んでいた。自治権獲得運動が活発になった。芽を出していた民族主義によって多くの政党が形成されていた。
1959年、イギリスは外交、防衛を除き、内政の自治権をシンガポールに与えることを決定し、選挙が行われた。
ケンブリッジで学んだリー・クアン・ユーをリーダーとする人民行動党は総議席51の内、43議席を獲得し勝利した。
リーは首相となり、31年間その地位を保ち続けた。
1961年、マラヤ連邦のラーマン首相は、63年のマレーシア完全独立について、シンガポール、ブルネイ、イギリス領サバ、サラワクとの連邦国家構想を発表した。シンガポールは国民投票の結果、この連邦への参加を決定した。
1963年、シンガポールはマラヤと合同しマレーシア連邦となった。
しかし、マレーシア政府のマレー人優遇政策と中国系住民が多数を占めるシンガポールの政治的亀裂が深まった。
1965年8月9日、シンガポールは、マレーシア連邦から分離、独立した。
シンガポールは伝統的な中継貿易依存型経済から脱却し、工業化を推進した。1968年、外資を積極的に導入し、さらに高度成長を続けた。
1990年、リー・クアン・ユーは首相を退陣し、ゴー・チョクトンに譲った。