

- ■〜17世紀
- 現在のベトナム北部は紀元前111年頃、中国の漢の支配下に入った。そしてその後約1000年間、中国の王朝、唐、南漢に支配された。
現在のベトナムの南部は、1世紀から6世紀まで、フーナン王国の一部だった。 しかし、550年頃、クメール族の王朝、真臘(シンロウ)によって滅ぼされた。
ヒンズー教のチャンパ王国は2世紀後半に、現在のダナンの周りを領土とした。その後、南に勢力を拡大した。
ベトナム北部では、ベトナム人は抵抗し反乱も繰り返された。そして938年、呉権(Ngo Quyen)が紅河デルタのパクダン江で南漢軍を打ち破り、中国の統治は終わった。
その後北部ベトナムでは短命王朝が相次いだ。
1010年、李公蘊(リコンウアン)が現在のハノイを首都として李朝を興し、大越国を打ち立てた。
1225年、大越国は李朝から、陳朝へ実権が移った。
大越国は何度も繰り返される中国の侵略を撃退した。しかしそのため疲弊し、1400年滅亡した。 この後、内乱が起こり、中国、明による占領も起こった。
1428年、後黎朝により明は、ベトナムより追い払われ、その後後黎朝は、チャンパ王国を支配し、北部、中部ベトナムを統一した。
その後、大越国は北部と中部に分裂し、北部は鄭氏が、中部は阮氏が支配し、対立は約200年続いた。
- ■18〜19世紀
- 阮映(アイン)は、1788年、中部ベトナムを奪回し、1801年にフエを、1802年にハノイを攻略しベトナム統一を果たした。彼はカンボジアをも支配下におき、首都をフエに定めた。これが阮朝である。阮映(アイン)は皇帝となり、嘉隆(ジャロン)と名乗った。
嘉隆(ジャロン)は統一の過程で、フランス志願兵と宣教師の助力を頼み、このためフランスにベトナム進出の足掛かりを与えた。
嘉隆(ジャロン)の後を継いだ明帝(ミンマン)は、カトリックの布教を禁止し、ヨーロッパ諸国を廃絶した。
1858年、何人かの宣教師が殺された後、フランスとスペインを中心とした軍がダナンを攻略した。1年後、ホーチミン市(旧サイゴン)が占領された。
1867年までに、フランスはベトナム南部を全て征服していた。ベトナム南部はコーチン・チャイナとしてフランスの植民地となった。
1882年、フランスはハノイを征服し、フエの阮朝は弱体化した。
結局、フランスはベトナム、カンボジア、ビルマを植民地化し支配下においた。 - ■20世紀
- ホーチミンは、1925年、中国広州でベトナム青年革命同志会を組織し、武力によるベトナム開放を目指した。
ホーチミンに率いられた共産ゲリラは、フランスの支配に抵抗した。
1940年、日本軍はベトナム北部に進駐し、翌41年南部に進駐した。日本はフランスの傀儡政権ビシー政府と協定を結び、ベトナムは日仏による二重支配となった。両者はともに圧政を敷いた。
日本軍はベトナムで、ジュートなどの強制作付けや米の強制供出を行った。これにより、ベトナムでは深刻な食糧不足となり、北部では200万人とも言われる餓死者を出した。
ベトナム青年革命同志会の組織は、ベトナム共産党を形成していた。ベトナム共産党はベトナム独立同盟会(俗称「ベトン」)を結成し、日本軍に対する解放闘争を行った。
第二次世界大戦後、1945年8月19日ホーチミンは、ベトナム独立を宣言し、ハノイで蜂起した。フエでも蜂起が起こり、阮朝は滅亡した。ベトナム民主共和国が樹立され、ホーチミンが国家主席に就任した。
しかし1945年9月、フランス軍はイギリスに支援されベトナムを再侵略した。ベトミンと戦闘に入った。1946年2月にはフランスは北緯15゜以南のベトナムを支配していた。1946年9月26日、ホーチミンはベトナム南部の国民に反フランス闘争を呼びかけた。ハイフォン、ハノイ、南部でも戦闘が激化した。戦闘は長期化し、次第にフランス軍は消耗していった。1954年、有名なディエン・ビエン・フーでフランス軍は、大敗を喫した。これによりフランス軍の劣勢が明らかになった。
1954年のジュネーブ会議で、ベトナムは北緯17゜線を軍事境界線として二つの国家に分割された。共産主義国家の北ベトナム(ベトナム民主共和国)とアメリカに援助された南ベトナム(南ベトナム共和国)である。北ベトナムはホーチミンが、南ベトナムでは、ゴン・ジン・ジェムが指導者だった。
南ベトナムではアメリカに支援されたジェム政権が、腐敗と反対者への弾圧で、民衆の支持を失っていった。南ベトナムでは、ジェム政権とアメリカに対する反対運動が激化していった。
1960年12月、南ベトナムに、「南ベトナム民族解放戦線」が結成された。俗称「ベトコン」である。南ベトナム民族解放戦線はアメリカと南ベトナム政府に宣戦布告し、第二次インドシナ戦争が始まった。
アメリカのケネディ大統領は本格的な軍事介入に乗り出した。
ケネディの死後、大統領となったジョンソンは、南ベトナムへの軍事介入を増強していった。莫大なアメリカ軍がベトナムへ送られた。
戦争は泥沼化し、アメリカ軍も多大な損害を被った。強大な軍備を持つアメリカ軍に対し、「南ベトナム民族解放戦線」はジャングルでゲリラ戦を闘った。
アメリカ軍は、ジャングルの小道を通る北ベトナムからの補給路ホーチミンルートとゲリラ戦を阻止するために、木々を枯らすために枯れ葉剤をジャングルに撒いた。そのためベトナムではその後遺症に苦しむ人々が現在でも多数いる。現在ホーチミン市の戦争犯罪博物館では、枯れ葉剤による被害を詳しく展示している。
南ベトナム政府は相変わらず弾圧政治を行い、南ベトナムの民心はますます離れていった。
アメリカは、北ベトナムへの空爆をも始めた。しかし次第に「南ベトナム民族解放戦線」と北ベトナム正規軍の優位が明らかになり始めた。アメリカ国内では、多大な損害と莫大な戦費により、次第に厭戦気分が高まっていった。ジョンソンに代わり大統領となったニクソンは、北爆を停止し、撤退への道を模索した。
パリで、北ベトナムとアメリカの交渉が行われた。
1973年、パリ和平合意が調印された。即時停戦とアメリカ軍の撤退が決定した。
アメリカ軍は撤退したが、その後もアメリカによる軍事援助は続行した。 戦闘は続いた。しかし南ベトナム軍の敗勢は次第に明らかになった。
北ベトナム、解放戦線は1973年から反攻に転じ、次第にサイゴンへ迫った。
- ■統一
- 1975年4月30日、南ベトナムの首都サイゴンが陥落した。南ベトナムは消滅し、ベトナム社会主義共和国が統一国家となった。
サイゴンはホーチミン市と改名された。
1978年、政府は、旧南ベトナムの私営商工業を強制的にすべて国営にした。この措置に賛成しない華僑やベトナム人が多数国外脱出を図った。
1978年、ベトナムはカンボジアに侵攻した。ベトナムの支援を受けたヘン・サムリンのカンボジア民族救国戦線は、クメール・ルージュを破り、1979年1月、プノンペンを制圧した。
ベトナム戦争当時、中国は北ベトナムを支援していた。しかしカンボジアのクメール・ルージュに対するベトナムの攻撃、西沙諸島、南沙諸島などの領土問題、中国・アメリカの接近などによって、中越関係は悪化していった。
1979年2月、中国軍はベトナム北部に侵攻し、戦闘が起こった。
1989年9月、ベトナムはカンボジアから完全撤退した。
1991年のソ連崩壊により冷戦は終結した。そしてベトナムは、西側諸国との関係改善を図った。
1993年、ベトナムは農業の私営を認め、工業部門においても私企業を認可し、市場経済の導入を図った。
1995年7月28日、ベトナムはASEANに加盟した。
1995年8月5日、ベトナムはアメリカと国交を回復した。
1997年7月31日、ベトナム最後の皇帝バオダイ氏は、パリで死去した。