インド

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基本情報

国名 インド
正式国名 インド共和国 (英語:Republic of India)
面積 328万7,590 平方km (日本の約8.7倍)
人口 11億7,310万8,018人(2010年推計)
首都 デリー
言語 公用語はヒンディー語、他に憲法で公認されている州の言語が17、英語は準公用語
宗教  
通貨 単位はルピーRupee(Rs)。補助単位はパイサPaisa(P)。
1Rs=100P。
為替レート 1ドル=46.78ルピー(2009年)
日本との時差 -3時間30分
ビザ
ビザ
入国にはビザが必要です。観光ビザは通常発行日から180日間有効で、 期間内は何度でも出入国できます。ビザは発行日から6ヶ月以内にインドに入国しなければ無効になります。
パスポート
ビザ申請時で残存期間が6ヵ月以上あること。

※ビザやパスポートなどの情報は予告なく変更されることがあります。
必ず、インド大使館、領事館などで確認してください。
国旗 上からオレンジ、白、緑の3つの等しい水平な帯。 白い帯の中心に青いチャクラ(糸車/24本のスポークの輪)がある。
入国ルート  
国際電話  
政治  
   
   

地勢・気候

地図
位置:南アジア。アラビア海とベンガル湾に面し、バングラディシュとパキスタンの間にある。
面積
全面積: 328万7,590 平方km
陸地の面積:297万3,190平方 km
国際紛争:バングラディシュおよび中国との国境線。 パキスタンとの間でカシミールの領有紛争が続いている。
気候: 南部の熱帯性モンスーン気候から北部の温帯性気候までさまざま。
ニューデリーの気温・降水量
地形:南部には高台の平地(デカン高原)、ガンジス河に沿って平地や、緩やかに起伏する平地、西部は砂漠。北部はヒマラヤ山脈。
天然資源:石炭(世界第4位の埋蔵量)、鉄鉱石、マンガン、雲母、ボーキサイト、チタン鉱石、クロム、天然ガス、ダイアモンド、石油、石灰石

政治

正式名称:インド共和国 (英語:Republic of India)
政体:連邦共和制
首都: ニューデリー
行政区分:25の州と7つの連邦管理地区
独立:1947年8月15日 (イギリスから)
憲法:1950年1月26日
法律制度:イギリスの慣習法に基づく
選挙権:18歳以上の国民
行政府
元首:大統領 プラティバ・デヴィシン・パティル(2007年7月25日就任)
政府の長:首相 マンモハン・シン (2004年5月22日就任)
立法府:二院制
上院(ラージヤ・サバー) :245議席。任期6年で解散はなく、2年ごとに改選される。定数245名の内、12名が各分野の専門家を大統領が指名し、残りが単記移譲式投票で選出される。選挙権は、州議会議員にのみ与えられる。被選挙権は、30歳以上のインド国民。
下院(ローク・サバー) :543議席。任期5年で解散がある。定数545名の内2名がイギリス系インド人の中から大統領によって指名され、残り543名は小選挙区制。選挙権は、18歳以上のインド国民。被選挙権は、同25歳以上。
2009年4~5月に、下院選挙が行われた。
定数545 議席
  党名 議席数
与党 国民会議派(INC) 208
全インド草の根会議派(AITC) 19
ドラヴィダ進歩同盟(DMK) 18
民族主義会派(NCP) 9
その他の政党 10
野党 インド人民党(BJP) 116
ジャナタ・ダル(JD[U]) 20
シブ・セナ(Shiv Sena) 11
その他の政党 12
第三勢力 インド共産党マルクス主義派(CPI/M) (左派) 16
インド共産党(CPI) (右派) 4
革命的社会党(RSP) 2
全インド前衛ブロック(AIFB) 2
大衆社会党(BSP) 21
ビジュ・ジャナタ・ダル(BJD) 14
ジャナタ・ダル(世俗主義)(JD[S]) 3
その他 社会党(Samajvadi Party) 22
民族ジャナタ・ダル(RJD) 4
無所属 9
その他の政党 3
大統領による指名
インド下院ホームページより

経済

概況
GDP(MER): 1兆2,359億7,500万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(MER):1,030.785ドル (2009年:IMF)
GDP(PPP): 3兆5,261億2,400万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(PPP):2,940.736ドル (2009年:IMF)
国内総生産実質成長率:5.668% (2009年:IMF)
インフレ率(消費者物価):14.966% (2009年:IMF)
国家予算
歳入:1,332億ドル
歳出: 2,169億ドル (2009年推計)
輸出: 1,682億ドル(2009年推計)
商品:石油製品、宝石、機械、鉄鋼、化学、自動車、アパレル
相手国: UAE 12.87%、アメリカ12.59%、中国5.59% (2009年)
輸入: 2,743億ドル (2009年推計)
商品: 原油、貴石、機械、肥料、鉄鋼、化学
相手国:中国 10.94%、アメリカ7.16%、サウジアラビア5.36%、 UAE 5.18%、オーストラリア 5.02%,、ドイツ 4.86%、シンガポール 4.02% (2009年)
対外債務:2,213億ドル (2009年)
工業生産:成長率9.3% (2009年推計)
発電量: 7,238億 kWh (2009年)
産業: 繊維、化学、食品加工、鉄鋼、輸送機械、セメント、鉱業、石油、機械、ソフトウェア、医薬品
農業: GDPの17.1%を占める。
主要作物:米、小麦、脂肪種子、綿、ジュート、茶、サトウキビ、レンズ豆、タマネギ、ジャガイモ、乳製品、めん羊、山羊、家禽、魚
通貨: ルピー
1 Indian rupee (Re) = 100 paise(パイサ)
為替レート:1ドル=46.78ルピー(2009年)

歴史

(工事中)

紀元前
紀元2500年頃より、インダス川の広大な流域に高度な文明が栄えた。インダス文明である。 この文明は紀元前1500年頃滅びたが、アーリア人の侵入によるという説が有力である。
紀元前1500年頃、中央アジアの草原地帯から移動したアーリア人がインド亜大陸へ侵入した。そして、先住民を征服し定着していった。
紀元前6世紀には、ガンジス川流域にマガダ国、コーサラ国など16王国が栄えた。
仏教、ジャイナ教は、紀元前5世紀頃、マガダ国で生まれた。
紀元前327年、アレキサンダー大王がペルシャ帝国を打ち破り、ヒンズークシ山脈を越え、ペルシャ帝国の残存兵を討ち滅ぼすためにやって来た。
彼の滞在は短かったが、今でもいくつかの部族には彼らがアレキサンダーやその軍隊の子孫だと主張する伝説が残っている。
紀元前321年、チャンドラグプタがナンダ朝を倒し、マウリア朝が創設された。マウリア朝は第3代のアショーカ王の時代に最盛期を迎えた。 後にシルクロードの全盛期がやって来た。中国、インドおよびローマ帝国間の貿易が行われた。
1〜15世紀
紀元1世紀頃起こったクシャン朝はシルク貿易の中心にあり、ガンダーラ地方(現在のペシャワール周辺)にクシャン朝の首都を築いた。
紀元2世紀までに、クシャン朝は最盛期を迎え、領土はイラン東部から中国辺境および南はガンジス河まで拡大した。
クシャン朝は仏教国であり、カニシカ王の下で数千の僧院やストゥーパが建てられた。
まもなくガンダーラは貿易と宗教的な学問と仏教徒の聖なる土地として巡礼する場所となった。
ガンダーラ地方を中心に栄えたのでガンダーラ美術と言われる。 クシャン朝は4世紀までに分裂した。 320年頃、チャンドラグプタ1世によりグプタ朝が興された。
グプタ朝は400年前後には、北インドを統一し、5世紀初頭にはほぼ全域を統一した。
グプタ朝は5世紀後半より衰退し、中央アジアの騎馬民族エフタルの侵入などにより、550年頃に滅亡した。
7世紀頃、ハルシャ・ヴァルダナ王によりヴァルダナ朝が興り、北インドを統一した。王の死後、ヴァルダナ朝は滅亡した。
12世紀中頃、アフガニスタンにイスラム教のゴール朝が興り、インドへ侵入した。13世紀初頭にはインドの大領域を支配したが、まもなく分裂、滅亡した。
1206、デリーを首都とするイスラム王朝が起こった。後5つの王朝が続いたが、1526年バーブルのムガール帝国に滅ぼされた。
16〜19世紀
ティムール子孫と言われるバーブルは、サマルカンドでの国家建設に失敗し、北インドへ侵入した。そして1526年、ムガール帝国を建国した。
第3代皇帝アクバルの時代に、ムガール帝国は北インドおよび南インドの大半を統一した。
タージマハールを建設したシャージャハンは第5代皇帝である。
支配者の後継者は徹底的な改革を導入し、国家宗教としてイスラム教の至上権を終わらせ、絵画を支援し、奇抜な建物を建設した。そして完全な方向転換をして、再び国家をイスラムへ回帰させた。
1600年、イギリスは東インド会社を設立。東インド会社は、1612年、インドの西海岸スラートに商館を開いた。
17世紀中頃から、各地で反乱が頻発し、ムガール帝国は次第に衰退していった。
東インド会社は1690年、カルカッタに軍事基地と商館を設立するための条件を、ムガール帝国と交渉した。
当時すでにムガール帝国の力は減退していた。
18世紀に入ると、地方の有力勢力が次々と独立を宣言し、地方国家を形成していった。
1756年、ムガール帝国のベンガル大守スラジャ・ウ・ドウラは、イギリスによるカルカッタの軍事基地強化の契約違反により、全てのイギリス人をカルカッタから追放した。
しかし東インド会社軍は1年後の1757年、カルカッタを取り戻し、大守の軍を打ち破った。これがプラッシーの戦いである。この勝利により東インド会社はベンガルでの徴税権を得、収入は飛躍的に増加した。 この後、東インド会社は、支配を拡大し、インドの総面積の5分の3を支配した。
1857年、セポイの反乱は多数のイギリス人を殺害し、鎮圧に2年もかかった。セポイとは、東インド会社が編成したインド人傭兵の事である。反乱という名称となっているが、これは正しくは、民族解放闘争であった。反乱には、セポイだけでなく一般市民、各地の土候、ヒンドゥ、ムスリムの僧までもが参加していた。
東インド会社の統治は崩壊し、反乱の鎮圧後、イギリスはインドを直接統治とし、これまでの東インド会社に代わり、インド省が行政を担当した。
この直接統治により、インドは名実ともにイギリスの植民地となった。1858年、ムガール帝国は滅亡した。
東インド会社は1874年6月1日解散した。
1883年12月、カルカッタで「全インド国民協議会」第1回大会が開催された。 また1885年12月に、ボンベイで「インド国民会議派」第1回大会が開催された。 インド国民会議派の第2回大会はカルカッタで開催されたが、この時、全インド国民協議会が合流した。 1839年、イギリスはシーク教徒との戦争で勝利し、カシミール、ラダー、バルチスタン、ギルギットを併合し、それらを、ジャンムー・カシミール国と名づけた。こうしてイギリスはロシアの領土拡張主義への緩衝国を北西部に、そして知らず知らずの内に蒸発してインド亜大陸の最も扱いにくい災いになったものを作り上げた。 1848〜49年のイギリスに対しての二度目の戦争は、帝国を崩壊させた。1850年代に、イギリスはパンジャブとシンドを併合した。
20世紀
19世紀後半、イギリス領インドでは国民の民族意識が高まっていた。
1905年、ベンガル州を2分割することが発表された。これはヒンドゥ、ムスリムの州を作り対立を深め、ナショナリズムの高揚を押さえようと意図されたものだった。
1906年、ムスリム連盟が、イスラム教国家の独立を要求するために設立された。
1911年、イギリスはベンガル州分割を取り消した。
1914年8月、第一次世界大戦が勃発した。
インドはイギリスの植民地として、この戦争に巻き込まれた。インド国民会議派や各地の土候国は進んでイギリスに協力した。インドは年間の税収入以上の金額をイギリスに寄付し、100万人近いインド兵士を戦場に送った。
1918年、「ローラット法案」が発表された。これは令状なしの逮捕、裁判なしの投獄、上告を認めない、という弾圧法だった。これが発表されるとインド全土から反対の声が起こった。しかしイギリスは1919年3月、同法を成立させた。
これに反対するインド人の指導者として現れたのが、ガンジーである。彼は、1914年、南アフリカから帰国すると、各地で農民運動、労働争議を指導していた。
「ローラット法案」に対し、4月6日ガンジーはインド全土での「同盟休業」を指示した。
4月6日、インド全域で商店、工場は閉じ、学校は休校した。
4月13日、アムリトサルのジャリアンワーラーの庭園での集会に、2万人近い人々が集まっていた。府武装の人々に対し、イギリス軍が発砲し、死者397名、負傷者1200名を出した。
1920年、ガンジーの呼びかけに応じ、国民会議派は、非協力運動方針を決定した。これは、イギリス政府に対して、選挙のボイコット、公立学校からの子弟の引き上げ、外国製品(実質的にはイギリス製品)ボイコットなどである。
1920年11月の選挙では、有権者の80%がボイコットした。
1922年、ガンジーは逮捕され、禁固6年の判決が下った。
1924年、ガンジーは刑務所で急性盲腸炎にかかり、手術を受けた後、釈放された。
1939年9月3日、第二次世界大戦が勃発した。イギリスはインド国民の声を無視し、ただちにインドを参戦させた。
インド会議派は、戦争非協力の宣伝を開始したが、イギリスは、インド各地の会議派の指導者2万人以上を投獄した。 1945年8月15日、第二次世界大戦は終結した。 ヒンズー教徒とイスラム教徒の間の暴力は、1940年代中頃エスカレートし、イギリスは、イスラム国家を分離させることは避けられないと認めた。新しい総督ルイス・マウントバッテン卿は、1948年6月までに独立させることを宣言した。
1946年8月、カルカッタでヒンドゥ教徒とイスラム教徒が衝突し、4日間で5000人の死者を出した。ヒンドゥ教徒とイスラム教徒の対立は全土に広がり、両者の対立は決定的なものとなった。
イギリス領インドは、インドと言う名前を維持した中央部の主としてヒンズー教徒地域とイスラムの東西パキスタン(東パキスタンは現在のバングラディシュ)に分けられた。
国境線の宣言は、広がった殺戮と歴史上膨大な内の一つとなる移住を引き起こした。
独立
1947年8月15日、インドとパキスタンは分離独立した。
1948年、狂信的なヒンドゥ教徒により、ガンジーが暗殺された。
カシミール(ただしくはジャンムー・カシミール国)は、インドおよびパキスタンの一部となることを望んではいなかった。
インドとパキスタンはカシミールに軍隊を送った。二国間で戦闘が起こった。
1949年、国連は停戦を調停し2国にそれぞれカシミールを分配した。しかし結局なお国境は明確でないまま残された。
インドの初代大統領には、国民会議派議長プラサド、初代首相には、ネールが選出された。ネールは1964年に死去するまで、首相を務めた。
1961年、1510年以来ポルトガルの植民地であったゴアを、インドは強行接収した。
1965年、1971年、パキスタンとの戦争が起こった。
1966年、第2代首相シャストリの死去に伴い、ネルーの一人娘であったインディラ・ガンディが首相に就任した。
1971年の印パ戦争は、東パキスタン独立にインドが協力して起こった。
1971年12月16日、東パキスタンは独立し、バングラディシュとなった。
1984年6月、インド軍は 1984年10月、インディラ・ガンジー首相が暗殺され、息子のラジーブが首相に就任した。

人々

人口: 11億7,310万8,018人(2010年推計)
人口構成(2010年推計)
民族構成: インドーアーリア系 72%、ドラビダ系25%、モンゴル系その他 3%
宗教: ヒンズー教80%、イスラム教14%、キリスト教2.4%、シーク教2%、仏教0.7%、Jains 0.5%、 その他0.4%
言語: 公用語はヒンディ語。人口の30%が使用する主要言語である。英語は準公用語と言って良く、国家、政治、商業の交渉にもっとも重要な言語である。また各州の言語として、ベンガル語(公用語)、テルグ語(公用語)、マラティ語(公用語)、タミール語(公用語)、ウルドゥ語(公用語)、グジャラティ語(公用語)、マラヤラム語(公用語)、カンナダ語(公用語)、オリヤ語(公用語)、パンジャブ語(公用語)、アッサム語(公用語)、カシミール語(公用語)、シンディ語(公用語)、サンスクリット語(公用語)がある。 ヒンズー語は、ヒンズー・ウルドゥからの普及した変形だが、インド北部を通じて広く話されている。
注:100万人またはそれ以上の人々によって話される24の言語がある。他に多数の言語や方言があるが、その大部分はお互いに理解できない。
識字率(7歳以上) (2001年census)
全人口平均 男性 女性
61% 73.4% 47.8%
労働力:4億6,700万人 (2009年推計)
職業: 農業 52% 、サービス業34%、鉱工業14%(2009年推計)

地図

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