ベトナム

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基本情報

国名 ベトナム社会主義共和国
面積 32万9,560 平方 km (日本の約0.87倍)
人口 8,957万1,130人 (2010年推計)
首都 ハノイ
言語 ベトナム語(公用語)
宗教  
通貨 ドン 1 new dong (D) = 100 xu
為替レート 1ドル=約14,000ドン 10,000ドン=約75.67円
日本との時差 -2時間
ビザ 2004年1月1日より、以下の条件に合致する日本人にはビザが免除されています。
1.ベトナムでの滞在日数が入国日より15日を超えないこと
2.観光及びビジネスを入国目的とすること
3.日本国旅券の有効期限が最低3か月以上あること
4. 往復航空券または代位3国行き航空券を所有していること

上記以外の場合は、ビザが必要です。

この情報は、あくまで参考資料です。
※ビザやパスポートなどの情報は予告なく変更されることがありますので、最新の情報はベトナム大使館、領事館にお問い合わせください。
国旗  
国際電話  

 
   
   
   

地勢・気候

地図
位置:東南アジア。シャム湾、トンキン湾、南シナ海に面し、中国とカンボジアに接している。
面積
全面積: 329,560 平方 km
陸地の面積: 325,360 平方 km
国境線:全長 3,818 km、 カンボジア 982 km、 中国1,281 km、 ラオス1,555 km
国際紛争
カンボジアとの海の国境は、確定していない。
中国、マレーシア、フィリピン、台湾、そしてあるいはブルネイとの南沙諸島(スプラトリー諸島)をめぐる複雑な争いに巻き込まれている
タイとの領海線は解決していない。
トンキン湾における中国との領海線争い。
西沙諸島(パラセル諸島)は、中国によって占拠されたが、ベトナムと台湾は自国の領土であると主張している。
気候:南部は熱帯。北部はモンスーン気候。暑く、雨が多い季節(5月中頃から9月中頃) と温かい乾期(10月中頃から3月中頃)
ホーチミン市の気温と降水量
地形南部と北部は低く平らな三角州、中央は高地:最北部と北西部は、険しい山々。
天然資源:燐酸塩、石炭、マンガン、ボーキサイト、クロム酸塩、海底油田、森林

政治

正式名称:ベトナム社会主義共和国
(英語: Socialist Republic of Vietnam/ベトナム語:Cong Hoa Chu Nghia Viet Nam)
政体:社会主義
首都:ハノイ
独立:1945年9月2日(フランスより)
憲法:1992年4月15日
投票権:18歳以上の男女。被選挙権は21歳以上の男女。
行政府
元首:グエン・ミン・チエット国家主席 (2006年6月就任)
政府: 首相:グエン・タン・ズン(2006年6月就任) 
立法府:一院制 任期:5年 定数:493人
国会 (Quoc-Hoi):最新の選挙はは2007年5月20日行われた。:
議席 :ベトナム共産党450、非政党員(共産党推薦)42、無所属1人
政党およびその指導者
唯一の党は、 ベトナム共産党 (VCP) であり、ノン・ドゥック・マイン共産党中央委員会書記長、グエン・ミン・チェット国家主席、グエン・タン・ズン首相の3名の集団指導体制。

■軍事

軍事費: 5億4400万ドル、 GDPの2.7% (1995年)

経済

概況
ベトナムは貧しく、人口稠密な国である。戦争による破壊、旧ソ連圏からの金融支援の中止、硬直した中央計画経済から回復しなければならなかった。
ベトナム経済は、極度に低い経済状況から始まったが、過去10年を通して着実に発展した。 ベトナムは、最近、計画経済モデルからもっと効果的な市場経済システムへ移行しつつある。
大部分の価格は、今やまったくコントロールされていない。そしてベトナムの通貨は実際切り下げられ、変動相場制に移行している。加えて、主に農業での非集団化と、民営のビジネスを公認する法律の制定により、民間企業の活動の機会は広がっている。
輸出のほぼ4分の3は、わずか2つの商品、米と原油によって生み出された。
経済は工業と建設業がリードし、1993年、1994年には、それぞれ7%、9%の伸びを果たした。しかし、工業分野は、競争力のない国営の企業の存在が重荷となっている。
ざっと20%の失業者と、毎年の人口増加による労働力の増加で、失業対策が重大な問題となっている。
経済成長は1997年には強いペースで進み、工業生産は12%、実質GDP成長率は8.5%まで上った。
しかし、これらの好調な数値が経済上現れてきた幾つかの大きな問題を覆い隠してしまった。石炭、セメント、鉄鋼、紙などを含む主要な産業は多くの在庫を抱え、もっと実力のある外国企業との厳しい競争にさらされている。このため、1997年にはベトナムは33億ドルの貿易赤字を記録した。援助と外国からの投資の金額は落ち込み、急速に拡大した輸入に対する支払資金の供給が十分ではなくなった。ベトナムはその不足をしのぐために短期貿易クレジットを使っていると広く信じられている。これは外国為替が危険な状況になった場合にリスクのある戦略である。
ベトナム当局は、経済をよみがえらせ、もっと競争力を持ち輸出を押し進める産業を作り出そうとして、構造改革を進めているがその歩みは遅い。国営企業の民営化は政治的論争で行き詰まったままであり、勢いのある民間分野では融資や市場への参入機会を共に拒否されている。銀行分野の改革は遅く、ベトナムは現在の高い成長を維持するための十分な国内預金を使えるようにはできないだろうという懸念を引き起こしている。
行政および法律の障壁により、外国の投資者は認可までに時間と高いコストを必要とし、外国資本の流入を支えるベトナムの能力への同様の疑いを引き起こしている。
GDP(MER): 924億3,900万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(MER):1,059.943ドル (2009年:IMF)
GDP(PPP): 2,565億84万ドル (2009年:IMF)
一人当たりGDP(PPP):2,942.109ドル (2009年:IMF)
国内総生産実質成長率:5.324% (2009年:IMF)
インフレ率(消費者物価):6.518% (2009年:IMF)
失業率:6.5% (2009年推計)
国家予算 (2009年推計)
歳入:247.9億ドル
歳出:337.6億ドル
輸出:571億ドル (2009年推計)
商品:原油、水産物、米、コーヒー、ゴム、紅茶、衣類、靴
相手国: アメリカ21.43%、 日本11.44%、 中国7.27%、オーストラリア4.43%、ドイツ 4.27% (200年
輸入:654億ドル (2009年推計)
商品:機器および装置、石油製品、肥料、鉄鋼製品、綿花、穀物、セメント、オートバイ
相手国:中国16.42%、 シンガポール 9.61%、日本8.96%,、台湾 8.23%、韓国 7.72%、タイ 6.41%、香港 4.45%、 アメリカ 4.27% (2009年推計)
対外債務:278.4億ドル (2009年推計)
工業生産:成長率5.5% (2009年推計)
発電量
発電量:869億kWh (2009年推計)
産業:食品加工、衣類、靴、機械製造、鉱業、石炭、鉄鋼、セメント、化学肥料、ガラス、タイヤ、石油、紙
農業: GDPの21.3%を占める。 水稲、コーヒー、ゴム、綿、茶、胡椒、大豆、カシューナッツ、サトウキビ、ピーナッツ、バナナ、鶏肉、魚、シーフード
通貨:ドン
1 new dong (D) = 100 xu
為替レート
1ドル=17,740.8ドン (2009年)
運輸・交通
鉄道
全長:2,0835 km (ベトナム戦争に被害を受け回復していない 224 km を含む)
幹線道路(1996年推計)
全長:93,300 km
舗装:23,418 km
未舗装:69,882 km
通信
電話:80万回線(1995年推計)
ラジオ
ラジオ局: AM 不明、FM 228、 短波 0
ラジオ台数:722万台 (1992年推計)
テレビ
テレビ局:36 (中継77)
テレビ台数:290万台(1992年推計)

歴史

〜17世紀
現在のベトナム北部は紀元前111年頃、中国の漢の支配下に入った。そしてその後約1000年間、中国の王朝、唐、南漢に支配された。
現在のベトナムの南部は、1世紀から6世紀まで、フーナン王国の一部だった。 しかし、550年頃、クメール族の王朝、真臘(シンロウ)によって滅ぼされた。
ヒンズー教のチャンパ王国は2世紀後半に、現在のダナンの周りを領土とした。その後、南に勢力を拡大した。
ベトナム北部では、ベトナム人は抵抗し反乱も繰り返された。そして938年、呉権(Ngo Quyen)が紅河デルタのパクダン江で南漢軍を打ち破り、中国の統治は終わった。
その後北部ベトナムでは短命王朝が相次いだ。
1010年、李公蘊(リコンウアン)が現在のハノイを首都として李朝を興し、大越国を打ち立てた。
1225年、大越国は李朝から、陳朝へ実権が移った。
大越国は何度も繰り返される中国の侵略を撃退した。しかしそのため疲弊し、1400年滅亡した。 この後、内乱が起こり、中国、明による占領も起こった。
1428年、後黎朝により明は、ベトナムより追い払われ、その後後黎朝は、チャンパ王国を支配し、北部、中部ベトナムを統一した。
その後、大越国は北部と中部に分裂し、北部は鄭氏が、中部は阮氏が支配し、対立は約200年続いた。
18〜19世紀
阮映(アイン)は、1788年、中部ベトナムを奪回し、1801年にフエを、1802年にハノイを攻略しベトナム統一を果たした。彼はカンボジアをも支配下におき、首都をフエに定めた。これが阮朝である。阮映(アイン)は皇帝となり、嘉隆(ジャロン)と名乗った。
嘉隆(ジャロン)は統一の過程で、フランス志願兵と宣教師の助力を頼み、このためフランスにベトナム進出の足掛かりを与えた。
嘉隆(ジャロン)の後を継いだ明帝(ミンマン)は、カトリックの布教を禁止し、ヨーロッパ諸国を廃絶した。
1858年、何人かの宣教師が殺された後、フランスとスペインを中心とした軍がダナンを攻略した。1年後、ホーチミン市(旧サイゴン)が占領された。
1867年までに、フランスはベトナム南部を全て征服していた。ベトナム南部はコーチン・チャイナとしてフランスの植民地となった。
1882年、フランスはハノイを征服し、フエの阮朝は弱体化した。
結局、フランスはベトナム、カンボジア、ビルマを植民地化し支配下においた。
20世紀
ホーチミンは、1925年、中国広州でベトナム青年革命同志会を組織し、武力によるベトナム開放を目指した。
ホーチミンに率いられた共産ゲリラは、フランスの支配に抵抗した。
1940年、日本軍はベトナム北部に進駐し、翌41年南部に進駐した。日本はフランスの傀儡政権ビシー政府と協定を結び、ベトナムは日仏による二重支配となった。両者はともに圧政を敷いた。
日本軍はベトナムで、ジュートなどの強制作付けや米の強制供出を行った。これにより、ベトナムでは深刻な食糧不足となり、北部では200万人とも言われる餓死者を出した。
ベトナム青年革命同志会の組織は、ベトナム共産党を形成していた。ベトナム共産党はベトナム独立同盟会(俗称「ベトン」)を結成し、日本軍に対する解放闘争を行った。
第二次世界大戦後、1945年8月19日ホーチミンは、ベトナム独立を宣言し、ハノイで蜂起した。フエでも蜂起が起こり、阮朝は滅亡した。ベトナム民主共和国が樹立され、ホーチミンが国家主席に就任した。
しかし1945年9月、フランス軍はイギリスに支援されベトナムを再侵略した。ベトミンと戦闘に入った。1946年2月にはフランスは北緯15゜以南のベトナムを支配していた。1946年9月26日、ホーチミンはベトナム南部の国民に反フランス闘争を呼びかけた。ハイフォン、ハノイ、南部でも戦闘が激化した。戦闘は長期化し、次第にフランス軍は消耗していった。1954年、有名なディエン・ビエン・フーでフランス軍は、大敗を喫した。これによりフランス軍の劣勢が明らかになった。
1954年のジュネーブ会議で、ベトナムは北緯17゜線を軍事境界線として二つの国家に分割された。共産主義国家の北ベトナム(ベトナム民主共和国)とアメリカに援助された南ベトナム(南ベトナム共和国)である。北ベトナムはホーチミンが、南ベトナムでは、ゴン・ジン・ジェムが指導者だった。
南ベトナムではアメリカに支援されたジェム政権が、腐敗と反対者への弾圧で、民衆の支持を失っていった。南ベトナムでは、ジェム政権とアメリカに対する反対運動が激化していった。
1960年12月、南ベトナムに、「南ベトナム民族解放戦線」が結成された。俗称「ベトコン」である。南ベトナム民族解放戦線はアメリカと南ベトナム政府に宣戦布告し、第二次インドシナ戦争が始まった。
アメリカのケネディ大統領は本格的な軍事介入に乗り出した。
ケネディの死後、大統領となったジョンソンは、南ベトナムへの軍事介入を増強していった。莫大なアメリカ軍がベトナムへ送られた。
戦争は泥沼化し、アメリカ軍も多大な損害を被った。強大な軍備を持つアメリカ軍に対し、「南ベトナム民族解放戦線」はジャングルでゲリラ戦を闘った。
アメリカ軍は、ジャングルの小道を通る北ベトナムからの補給路ホーチミンルートとゲリラ戦を阻止するために、木々を枯らすために枯れ葉剤をジャングルに撒いた。そのためベトナムではその後遺症に苦しむ人々が現在でも多数いる。現在ホーチミン市の戦争犯罪博物館では、枯れ葉剤による被害を詳しく展示している。
南ベトナム政府は相変わらず弾圧政治を行い、南ベトナムの民心はますます離れていった。
アメリカは、北ベトナムへの空爆をも始めた。しかし次第に「南ベトナム民族解放戦線」と北ベトナム正規軍の優位が明らかになり始めた。アメリカ国内では、多大な損害と莫大な戦費により、次第に厭戦気分が高まっていった。ジョンソンに代わり大統領となったニクソンは、北爆を停止し、撤退への道を模索した。
パリで、北ベトナムとアメリカの交渉が行われた。
1973年、パリ和平合意が調印された。即時停戦とアメリカ軍の撤退が決定した。
アメリカ軍は撤退したが、その後もアメリカによる軍事援助は続行した。 戦闘は続いた。しかし南ベトナム軍の敗勢は次第に明らかになった。
北ベトナム、解放戦線は1973年から反攻に転じ、次第にサイゴンへ迫った。
統一
1975年4月30日、南ベトナムの首都サイゴンが陥落した。南ベトナムは消滅し、ベトナム社会主義共和国が統一国家となった。
サイゴンはホーチミン市と改名された。
1978年、政府は、旧南ベトナムの私営商工業を強制的にすべて国営にした。この措置に賛成しない華僑やベトナム人が多数国外脱出を図った。
1978年、ベトナムはカンボジアに侵攻した。ベトナムの支援を受けたヘン・サムリンのカンボジア民族救国戦線は、クメール・ルージュを破り、1979年1月、プノンペンを制圧した。
ベトナム戦争当時、中国は北ベトナムを支援していた。しかしカンボジアのクメール・ルージュに対するベトナムの攻撃、西沙諸島、南沙諸島などの領土問題、中国・アメリカの接近などによって、中越関係は悪化していった。
1979年2月、中国軍はベトナム北部に侵攻し、戦闘が起こった。
1989年9月、ベトナムはカンボジアから完全撤退した。
1991年のソ連崩壊により冷戦は終結した。そしてベトナムは、西側諸国との関係改善を図った。
1993年、ベトナムは農業の私営を認め、工業部門においても私企業を認可し、市場経済の導入を図った。
1995年7月28日、ベトナムはASEANに加盟した。
1995年8月5日、ベトナムはアメリカと国交を回復した。
1997年7月31日、ベトナム最後の皇帝バオダイ氏は、パリで死去した。

人々

人口:8,957万1,130人 (2010年推計)
人口構成 (2010年推計)
年齢 構成比 女性 男性
0-14 歳 26.1% 11,033,738人 12,069,408人
15-64 歳 68.3% 30,392,043人 30,149,986人
65 歳以上 5.6% 3,039,078人 1,892,505人
人口増加率: 1.096% (2010年推計)
出生率: 人口1,000人当たり17.29人 (2010年推計)
死亡率: 人口1,000人当たり5.97人 (2010年推計)
乳児死亡率(1歳以下): 出生1,000人当たり21.57人 (2010年推計)
平均寿命(2010年推計)
男性 女性
69.48歳 74.69歳
民族構成:ベトナム人 85%〜90%、 中国人3%、ムオン、タイ、メオ、クメール、マン、チャム族ほか
宗教: 仏教、道教、ローマカトリック、土着信仰、 イスラム教、道教、プロテスタント
言語:ベトナム語(公用語), フランス語、中国語、英語、クメール語、部族の言語 (モン-クメールおよびマラヤ-ポリネシアン語系)
識字率(15歳以上)(2002年推計)
全人口平均 男性 女性
90.3% 93.9% 86.9%
労働力: 4,651万人 (2009年推計)
職業(2009年推計)
農業 工業 サービス業
51.8% 15.4% 32.7%

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