国名 | レバノン共和国(Republic of Lebanon) |
面積 | 10,452平方km (岐阜県とほぼ同じ) |
人口 | 412万5,247人 (2010年推計) |
首都 | ベイルート |
言語 | アラビア語(公用語)、フランス語(公用語)、アルメニア語、英語 |
宗教 | イスラム教 70% (アラウィー派、ドゥル ーズ派、イスマイリ派、シーア派、スンニー派)、 キリスト教 30% (マロン派、ギリシャ正教、ギリシャ・カトリック、ローマ・カトリック、アルメニア正教) |
通貨 | レバノン・ポンド (L.L.) 1 Lebanese pound (#L) = 100 piasters |
為替レート | 1ドル=約1,501レバノン・ポンド 100レバノン・ポンド=約7.83円(2007年4月) |
日本との時差 | -7時間 |
ビザ |
※ビザやパスポートなどの情報は予告なく変更されることがあります。 必ず、大使館、領事館などで確認してください。 |
国旗 | |
国際電話 | |
- 位置:中東、イスラエルとシリアに挟まれ、地中海に面している。
- 国土
- 全面積:10,400平方km
- 陸地の面積:10,230 平方km
- 国際紛争: イスラエルは1982年6月よりレバノン南部に軍隊を駐留させている。シリアの軍隊は、1976年10月より北部、中央部、および東部レバノンに駐留している。
- 気候:地中海性気候。温暖、涼しく、湿気のある冬と暑く乾燥した夏。レバノンの山々は冬に大雪が降る。
- 地形:海岸沿いに細長い平地。 ベッカ渓谷はレバノンとレバノン外の山々を分断している。
- 天然資源:石灰石、鉄鉱石、塩、 水不足の地域にあって水が余る国
- 気候:地中海性気候。温暖、涼しく、湿気のある冬と暑く乾燥した夏。レバノンの山々は冬に大雪が降る。
- 正式名称:レバノン共和国
- (英語: Republic of Lebanon /アラビア語: Al Jumhuriyah al Lubnaniyah )
- 政体:共和制
- 首都:ベイルート
- 独立:1943年11月22日(フランス統治の国際連盟委任統治領から)
- 憲法:1926年5月23日, 何度も修正された。
- 法制度:オスマン帝国法、正典、ナポレオン法典、民法の混合。立法行為に対して審判の審判はない。
- 投票権:21歳以上。すべての男性に対しては義務。初等教育を受けた21歳以上の女性に対しては認可。
- 元首: ミッシェル・スレイマン大統領(2008年5月就任)
- 行政府:
- 首都:ベイルート
- 注:慣習により、大統領はマロン派キリスト教徒、首相はスンニー派イスラム教徒、立法府の下院議長はシーア派イスラム教徒である。
- 政府の長: 首相 サアド・ハリーリ(2009年11月就任)
- 立法府:一院制(128議席 キリスト教徒とイスラム教徒が同数 任期4年)
- 議長ナビ・ベリ(Nabih Berri)
- 国会:国会 (アラビア語- Majlis Alnuwab、フランス語 - Assemblee Nationale) この20年間で最初のレバノンの立法府選挙は1992年の夏に行われた。国会は、128の議員で構成され、二分の一はキリスト教徒で、二分の一はイスラム教徒に割り当てられた。そしてそれぞれの教徒の中で、イスラム教スンニー派、同シーア派、キリスト教マロン派、ギリシャ正教など計12の宗派に議席が割り当てられている。
宗教 宗派 議席数 イスラム教 シーア派 30 スンニー派 24 ドゥルーズ派 8 アラウィー派 2 小計 64 キリスト教 マロン派 34 ギリシャ正教 15 ギリシャカトリック 7 アルメニア正教 6 プロテスタント 1 キリスト教少数派 1 小計 64 合計 128 - 国会:国会 (アラビア語- Majlis Alnuwab、フランス語 - Assemblee Nationale) この20年間で最初のレバノンの立法府選挙は1992年の夏に行われた。国会は、128の議員で構成され、二分の一はキリスト教徒で、二分の一はイスラム教徒に割り当てられた。そしてそれぞれの教徒の中で、イスラム教スンニー派、同シーア派、キリスト教マロン派、ギリシャ正教など計12の宗派に議席が割り当てられている。
- 2009年6月7日、議会選挙が行われた。
結果:定数128傾向 党名(会派名) 議席数 3月14日勢力(反シリア派)
ムスタクバル潮流
進歩社会主義党(イスラム教ドルーズ派の政党)
レバノン・カターイブ党
レバノン軍団(LF)(キリスト教マロン派の民兵組織・右派政党)
民主フォーラム
国民ブロック党(キリスト教マロン派の右派政党)71 3月8日勢力(親シリア派) アマル運動(レバノン・レジスタンスの派遣)(イスラーム教シーア派の政党・民兵組織)
ヒズボラ(急進的シーア派イスラーム主義の政治・軍事組織)
自由国民潮流(変化改革ブロック)
マトン・ブロック(変化改革ブロック)
トリポリ・ブロック(変化改革ブロック)
バアス党(汎アラブ主義政党)
レバノン民主党
ターシュナーク党
シリア民族社会党
ナセル人民機構57 - 政党:政党活動は主に宗派に沿って組織されている。個々の政治家と宗教、氏族、経済的な関連による支持者で構成される政治グループが多数存在する。
- 国旗:3つの水平な帯、緑(上部)、白(二倍の幅)、赤。白地の部分の中心に緑と茶色のレバノン杉がある。
■軍事
- 軍事費:4億4500万ドル、 GDPの5% (1997年)
注:レバノンは1975年に始まった16年に及ぶ破壊的な内戦の終結以来、政治体制の再建と主権回復の道を歩んでいる。
国民的和解のための青写真となるタイフ合意のもとで、レバノンは、特にイスラム教徒に対して政治上のより大きな発言権を与えることによって、もっと公正な政治システムを確立しようとした。
1990年12月以来、レバノンは3つの内閣を経験し、1992年には20年間で初めての国会議員選挙を行った。
大部分の義勇軍は弱体化するか解散した。レバノン軍 (LAF)は、戦争の間、義勇軍によって使われていた多数の武器を押収し、中央政府の権力は国土の約2分の1に及んだ。
しかし過激シーア派組織ヒズボラは、武器の大部分を保持している。外国の軍隊はレバノンの一部地域をいまだ占領している。
イスラエルは、レバノン南部に軍隊を駐留させ、その隣接する国境線沿いの細長い地域で代理の義勇軍、南レバノン軍 (ASL)を援助し続けている。南レバノン軍 (ASL)の孤立領土は、この自ら宣言したセキュリティゾーンを取り囲み、約20km北には戦略都市Jazzineがある。
1993年12月現在、シリアは約3万から3万5000人の軍隊をレバノンに駐留させている。この軍隊は主にベイルート、北レバノン、ベッカ渓谷に基地をおいている。シリアの配備はレバノン内戦の初期にはアラブ連盟によって、およびタイフ合意によって合法と認められた。いまだ強化されていないレバノン軍、レバノン政府の要望、タイフ合意の国内改革を行うことにレバノン政府が失敗した事を理由に、今ではシリア政府は、ベイルートからの軍隊の撤兵を拒否している。現在の最大の懸案は、ベイルートの復興である。
- 概況:
- 1975〜1991年の内戦により、レバノンの経済インフラは大きな損害を受けた。国内生産は約半分になり、レバノンの中東での貨物集積地と銀行業のハブとしての位置はほとんど終わった。一応の平和によって、中央政府はベイルートでの統治の回復、税の徴収、基幹港や政府施設のの回復を始めることができるようになった。
破綻した経済もまた、銀行業の再開や回復力に富んだ中小規模の製造業によって支えられた。主に国外の労働者による家族への送金、銀行業務、製造業や農業の輸出、国際的な援助により外貨を得た。
比較的安定した1991年には、工業生産、農業生産、輸出は大きな伸びを示した。戦争によって破壊された国土の再建は、政治的対立による混乱により遅れ1992年に始まった。
1992年10月、ラフィク・ハリリが首相に任命された。ハリリは裕福な企業家であり、外国の援助と多大な投資の導入によりレバノンそしてベイルートの再建計画を行おうとした。
レバノン経済は、1993年にハリリ首相が自己資金180億円を使った再建計画「Horizon 2000」を始めることにより、再建されてきた。 基礎的なサービスの回復はあまり進まなかったが、ハリリ首相の就任以来、もっとも重要な改善はレバノンポンドの安定におかれた。1993年終わりまでに、レバノンポンドは30%以上価値が高まった。1993年と1994年は、国内および国外からの投資に対する支援と国際支援の追加を得た。
1994年の実質GDPは8%、1995年には7% 成長した。
1992〜97年には、インフレ率は年間170%から9%に落ち、外貨準備は14億ドルから40億ドル以上に増えた。
資本の流入は増え始め、外国への支払には余剰を生じ、レバノンポンドは比較的安定した。レバノンの戦争によって破壊された物理的・金融的インフラの再建も進んだ。20億ドルの企業である「Solidere」はベイルート中心にビジネス街を再建しようとしている。株式市場は1996年1月に再開された。国際的な銀行や保険会社も戻ってきた。
それにも関わらず、政府は経済的な土俵で厳しい挑戦をしている。外貨準備を使い、借金をすることにより再建資金を用意しなければならなかった。
イスラエルとの平和交渉は中断し、南部レバノンでは戦闘が続いているため、資本の活気ある流入が妨げられている。その上、貧富の差は、ハリリ首相が就任して以来大きくなり、再建の恩恵が得られないことに大衆の不満が起こり、政府はインフラの再建より生活レベルの向上に焦点を移している。 - GDP(MER): 335億8,500万ドル (2009年:IMF)
- 一人当たりGDP(MER):8,706.698ドル (2009年:IMF)
- GDP(PPP): 548億7,400万ドル (2009年:IMF)
- 一人当たりGDP(PPP):14,225.875ドル (2009年:IMF)
- 国内総生産実質成長率:9.000% (2009年:IMF)
- インフレ率(消費者物価):3.412% (2009年:IMF)
- 失業率: 9.2% (2007年推計)
- 国家財政: (2009年推計)
- インフレ率(消費者物価):3.412% (2009年:IMF)
- 歳入:84億2,700万ドル
- 歳出: 113億9,000万ドル
- 輸出:47億1,600万ドル (2009年推計)
- 商品:ジュエリー、基本金属、化学、その他消費財、果物や野菜、タバコ、建設鉱物、電力機器および開閉、織物繊維、紙
- 相手国:シリア26.04%、アラブ首長国連邦14.46パ%、サウジアラビア6.87%、スイス5.97%(2009年)
- 輸入: 159億5ドル(2009年推計)
- 商品:石油製品、自動車、医薬品、衣料品、肉や生きた動物、消費財、紙、織物、タバコ、電気機械および装置、化学物質
- 相手国:フランス10.84%、アメリカ 9.44%、シリア9.42%、イタリア7.01%、中国6.91%、ドイツ5.43%、ウクライナ4.55%、トルコ4.5%(2009年)
- 対外債務:318.9億ドル (2009年推計)
- 工業生産: 成長率1.1% (2009年推計)
- 発電量: 104.1億 kWh (2009年推計)
- 産業:金融、観光、食品加工、ワイン、ジュエリー、セメント、繊維、ミネラル、化学製品、木材、家具製品、石油精製、金属加工
- 農業:柑橘類、ブドウ、トマト、リンゴ、野菜、ジャガイモ、オリーブ、タバコ、めん羊、山羊
- 通貨:レバノン・ポンド
- 工業生産: 成長率1.1% (2009年推計)
- 1 Lebanese pound (#L) = 100 piasters
- 為替レート:1ドル=1,507.5レバノン・ポンド(2009年)
- 鉄道:
- 全長: 222 km
- 注:システムは修理されていない。できないと思われる。
- 主要道路:
- 全長: 7,300 km
- 舗装: 6,200 km
- 未舗装:砂利450 km、 ならした土 650 km
- 舗装: 6,200 km
交通・運輸
- 電話: 15万回線
- ラジオ局: AM 5、 FM 3、 短波 0
- 注:数多くのAMとFM局がさまざまな党派によって散発的に運営されている。
- ラジオ台数: 237万台(1992年推計)
- テレビ局: 13
- テレビ台数: 110万台(1993年推計)
- テレビ局: 13
通信
注:レバノンは1975年に始まった16年に及ぶ破壊的な内戦の終結以来、政治体制の再建と主権回復の道を歩んでいる。
国民的和解のための青写真となるタイフ合意のもとで、レバノンは、特にイスラム教徒に対して政治上のより大きな発言権を与えることによって、もっと公正な政治システムを確立しようとした。
1990年12月以来、レバノンは3つの内閣を経験し、1992年には20年間で初めての国会議員選挙を行った。
大部分の義勇軍は弱体化するか解散した。レバノン軍 (LAF)は、戦争の間、義勇軍によって使われていた多数の武器を押収し、中央政府の権力は国土の約2分の1に及んだ。
しかし過激シーア派組織ヒズボラは、武器の大部分を保持している。外国の軍隊はレバノンの一部地域をいまだ占領している。
イスラエルは、レバノン南部に軍隊を駐留させ、その隣接する国境線沿いの細長い地域で代理の義勇軍、南レバノン軍 (ASL)を援助し続けている。南レバノン軍 (ASL)の孤立領土は、この自ら宣言したセキュリティゾーンを取り囲み、約20km北には戦略都市Jazzineがある。
1993年12月現在、シリアは約3万から3万5000人の軍隊をレバノンに駐留させている。この軍隊は主にベイルート、北レバノン、ベッカ渓谷に基地をおいている。シリアの配備はレバノン内戦の初期にはアラブ連盟によって、およびタイフ合意によって合法と認められた。いまだ強化されていないレバノン軍、レバノン政府の要望、タイフ合意の国内改革を行うことにレバノン政府が失敗した事を理由に、今ではシリア政府は、ベイルートからの軍隊の撤兵を拒否している。現在の最大の懸案は、ベイルートの復興である。
- 16世紀から、レバノンは、オスマン・トルコの支配下にあった。
第一次世界大戦後、オスマン・トルコの崩壊により、1920年、レバノンはシリアの一部として国際連盟の委任統治領という形で、フランスの統治下に置かれた。
第二次世界大戦中の1943年に、実質的に独立国としての構造ができ上がった。
1945年、正式に独立国となった。
レバノンはその戦略的な位置と、国内の安定、そして親ヨーロッパ的な政府の存在により、多くの多国籍の企業がオフィスをベイルートに置いていた。
しかしレバノンには国家の構造に致命的な欠陥があった。レバノンでは、大統領とレバノン軍司令官をマロン派キリスト教徒、首相をスンニー派イスラム教徒が担当し、シーア派イスラム教徒には名誉職的な国会議長が与えられた。国会議員の割り当ては、キリスト教徒:イスラム教徒=54:45であった。
しかし公務員、国軍、私営企業においてでさえ、イスラム教徒に対する差別待遇が存在していた。権力はキリスト教徒が握り、半分近い人口のイスラム教徒は政治からも排除されていると感じていた。
独立当時少数派であったシーア派イスラム教徒は、出生率の高さも相まって次第に多数派を占めるようになってきた。1970年代には、イスラム教徒の人口は、キリスト教徒をはるかに越えていた。
1948年のイスラエル建国宣言とそれに伴い周辺アラブ諸国との間で起こった第1次中東戦争により、イスラエル軍に追われ難民となったパレスチナ人は、レバノン、ヨルダン、シリアへ避難した。レバノンへ避難したパレスチナ人は、当初ベッカー高原、ついでバイルートのパレスチナ難民キャンプへ住んだ。レバンンのパレスチナ難民は約30万人といわれる。1970年までヨルダンを本拠地としていたパレスチナゲリラは、ヨルダン政府により国外に追放された。「ブラック・セプテンバー」と呼ばれる。彼らが移動したのはレバノン南部だった。ここを本拠地とし、パレスチナゲリラはイスラエルに対し、ゲリラ攻撃や、ロケット砲による攻撃を行った。 1975年、マロン派キリスト教民兵によるパレスチナ難民への攻撃をきっかけとして、各地で衝突が起こり、イスラム教徒とキリスト教民兵の間の全面的な内戦へと発展した。
1976年4月、シリア軍が、レバノン大統領スレイマン・フランジェの要請により、介入した。シリア軍によって、取り敢えず停戦が実現した。
1978年3月、イスラエル軍がレバノン南部、国境から数十キロ侵攻した。代理軍としてキリスト教徒のレバノン軍将軍を司令官とした南レバノン軍(SLA)を設立した。それは国境を越えて攻撃を掛けてくるPLOからイスラエル北部を守るためだった。
国連の圧力により、イスラエル軍は3カ月後に撤退した。その地には国連平和維持軍(UNIFIL)が展開した。
一方ベイルートでは、イスラム教徒とキリスト教民兵が、兵力を増強していた。政治的解決策は全くなく、戦闘はシリア軍の介入によってのみ止められた。
1982年、イスラエル軍は再びレバノンに侵攻した。 今回の目的は、PLOを壊滅させる事だった。イスラエル軍はベイルートを包囲した。そして7週間、西ベイルートのPLO本部などパレスチナ・ゲリラを徹底的に攻撃した。
8月、アメリカによる調停が成立した。PLOの幹部、戦闘員は他のアラブ諸国に避難した。これによりレバノンでのPLOの影響力は壊滅した。アメリカとヨーロッパの多国籍軍(MNF)はパレスチナ人とイスラム教徒市民を守るためにベイルートに展開した。
PLO撤退の数週間後、キリスト教民兵の指導者であり、レバノンの大統領当選者バシール・ジェマイールが暗殺された。その暗殺後、イスラエル軍は西ベイルートに入った。2日後、イスラエル軍にバックアップされたキリスト教民兵は、西ベイルートにある難民キャンプのパレスチナ人たちを虐殺した。
ジェマイールの弟アミンが大統領に当選した。
1年後、イスラエル軍はレバノン南部へ撤退した。その直後、イスラエル保護下にあったベイルートの東で、ドゥルーズ派イスラム教民兵とキリスト教民兵が戦闘を始めた。同時にレバノン軍とイスラム教民兵が、首都で戦闘を始めた。MNFは攻撃に曝され、多数の死傷者を出した。MNFは1984年前半、撤退した。
1985年中頃、イスラエル軍は国境沿いに幅約60kmを確保して撤退した。
この後2年以上、キリスト教民兵とイスラム教民兵との戦いは続き、イスラム原理主義者による外国人の誘拐が相次いだ。
首相セリム・アル・ホスの要請により、シリア軍が再び西ベイルートに入った。シリア軍は次第にイスラム地区を支配下に置いていった。
1988年9月、任期満了にともないジェマイール大統領は、首相に同じキリスト教徒のミッシェル・アウン将軍を指名した。
一方レバノンの多数の国会議員たちはサウジアラビアのタイフに集まり、アラブ諸国が仲介した「国民和解のための合意」に調印した。
1989年、国会議員たちは選挙により新しい大統領を選出した。ルネ・ムアマドである。しかし彼は当選17日後、暗殺された。エリアス・ハラウィがかわって大統領となった。彼は穏健なマロン派キリスト教徒で、シリアとも友好関係を持っていた。
アウン将軍は新大統領を認めず、レバノンのシリア軍に対して戦闘を始めた。激しい戦いの後、アウン将軍は敗れ、1991年8月、フランスへ亡命した。 シリアの協力を得て、ハラウィとレバノン軍はベイルートに秩序をもたらし、1991年後半にはレバノンの大部分にその勢力を展開した。
南部レバノンを除き、一応の和平が実現した。 1991年、16年間に亙る内戦を行った大部分の民兵組織は禁止された。
1992年8月、この20年間で最初の選挙が行われた。シーア派イスラム原理主義者グループ、ヒズボラは14議席を獲得した。
1993年7月、ヒズボラの攻撃によりイスラエル兵7人が死んだ。イスラエルはレバノン南部の80以上の村を攻撃し、死者113人、30万人以上が避難した。この攻撃はアメリカの干渉により中止された。 94〜96年にも、イスラエルに対するヒズボラの攻撃が何度も行われた。
- 人口 :412万5,247人 (2010年推計)
- 人口構成 :(2010年推計)
年齢 構成比 女性 男性 0-14 歳 25.8% 506,83人 528,047人 15-64 歳 67.1% 1,399,047人 1,294,485人 65 歳以上 7.2% 158,530人 130,148人 - 人口増加率 : 0.621% (2010年推計)
- 出生率 :人口1,000人当たり 15.1人(2010年推計)
- 死亡率 :人口1,000人当たり 6.46人 (2010年推計)
- 乳幼児死亡率(1歳以下) :出生1,000人当たり16.4人 (2010年推計)
- 平均寿命 : (2010年推計)
男性 女性 73.28歳 73.33歳 - 民族構成 :アラブ人95%、 アルメニア人 4%、 その他1%
- 宗教 :
- 人口構成 :(2010年推計)
- イスラム教 70% (5つの合法と認められたイスラム教宗派 - アラウィー派 または Nusayri、ドゥルーズ派、イスマイリ派、シーア派、スンニー派)、 キリスト教 30% (11 の合法と認められたキリスト教宗派- 4つの正統派のキリスト教徒、 6カトリック、 1プロテスタント )、 ユダヤ教
- レバノン南部は、圧倒的にシーア派教徒が多く、逆にレバノン北部にはスンニー派、マロン派、ギリシャ正教徒が多く住んでいる。また山岳部ではマロン派教徒が圧倒的に多い。ベカー高原では、シーア派、スンニー派、マロン派、ギリシャカトリック、ギリシャ正教徒、 ベイルートではスンニー派、ギリシャ正教徒、アルメニア正教徒、シーア派のモザイク状況である。
- 言語 :アラビア語(公用語)、フランス語(公用語)、アルメニア語、英語
- 識字率(15歳以上) : (2003年推計)
全人口平均 男性 女性 87.4% 93.1% 82.2% - 労働力 :148.1万人 および約100万人の外国人労働者がいる(2007年推計)
- 識字率(15歳以上) : (2003年推計)
主要軍事組織 |
イランをバックとしているイスラム教シーア派原理主義者組織。組織名の意味は「神の党」。 レバノン南部で主に活動していたが、首都ベイルートでも勢力を伸ばしている。レバノン国内からイスラエルを排除するために活動している。ヒズボラはレバノン南部で国境沿いに10〜15kmの幅を占領しているイスラエル占領地域に約3000人の民兵を展開している。イスラエル軍と彼らに同盟している南レバノン軍(SLA)に対して、常時攻撃をかけている。 ヒズボラは、レバノン内のイスラエルの占領に対するイスラム抵抗運動を指導していると言われており、南部でのイスラエルの軍事行動に対する報復を行っている。
ヒズボラはイスラエルの占領に対する抵抗によって、レバノンの様々な地域共同体での支持を高め、その存在を認められている。
ヒズボラはレバノン国会にも議席を持ち、貧困層以下の生活をしている約30%のレバノン人の大部分を占めるシーア派の市民の為に福祉のネットワークを作っている。
1995年、ヒズボラは72人のゲリラを失った。
「ヒズボラ」の概要を参照
■イスラミック・ジハード
1979年にイスラエルの占領地域で生まれたスンニー派秘密組織。ヨルダン川西岸およびガザ地区でイスラエルへの武装抵抗を主張した。
大部分のアラブ諸国の体制を批判し、強くイランの支援を受けている。強い政治的、イデオロギー的な違いにも関わらず、その地域の最も重要な解放運動と考えられているPLOを支持している。 イスラム革命の名のもとで攻撃を行った多くのイスラム原理主義組織に、その名前が与えられている。
■アマル
シリアがバックにいるイスラム教シーア派組織。レバノン国会議長ナビ・ベリが指導者。
レバノン南部のイスラエル占領地域に約2000人の民兵を展開している。
1995年、アマルの戦闘員11名が殺害された。
■南レバノン軍(SLA)
イスラエルが背後で支援している親イスラエル民兵組織。レバノン政府軍に所属していたマロン派の元兵士たちにより結成された。アントニー・ラフド(Antoine Lahd)を司令官としている。約2500人がレバノン南部のイスラエル占領地域に展開している。レバノンは1996年1月に、イスラエルによる占領に協力した罪で彼の逮捕状を発行した。
イスラエルはレバノン南部の国境地帯の幅10〜15kmの細い地域(安全保証地帯)を占領しているが、その地域でSLAは、イスラエル北部へのゲリラの攻撃に対して、その地域に展開している約1500人のイスラエル軍と共同で防衛するのを助けている。
1995年には、SLAの戦闘員33名が殺され87名が負傷した。
イスラエル軍は25名が死亡、99名が負傷した。
イスラエルは、レバノンとの全ての平和交渉の中で、SLAのとその家族の安全保証を要求している。
主要な宗派 |
■シーア派
シーア派は、イスラム教の創始者モハメッドの後継者をめぐる争いの結果により成立した、原理主義的イスラム教である。シーア派は予言者マホメットのいとこでありマホメットの娘の夫であるアリーを正当な後継者と見なしている。
シーア派は、聖職者がヒエラルキーの頂点として指導する。スンニー派より信者は少ない。
世界中で約9,000万人の信者がおり、大部分のシーア派はイラン、イラク、バーレーン、レバノンの一部に住んでいる。
■スンニー派
その名前は、スンナ(慣行)からきている。その意味は「予言者(モハメット)の慣行」。
世界中に約7億人の信者がいる正統派のイスラム教宗派である。レバノンではスンニー派の信者は約80万人おり、主に沿岸部の都市に住んでいる。世界のイスラム教徒の約90%がスンニー派である。
イスラム教は予言者モハメッドの正当な後継者をめぐる争いの結果、分裂した。スンニー派は聖職者を頂点とするヒエラルキーではなく、その時の現実的に優勢な政治的勢力が宗教のリーダーシップを決定すると信じている。
■ドゥルーズ派
レバノンにある幾つかのイスラム教共同体の一つ。 50万人以上の信者がいる。シリアとレバノンにほぼ均等に分れている。イスラエルには約4万人がいる。
■マロン派キリスト教
マロン派は、カトリックの子孫だが、内戦前はレバノンで単一宗教として最大の信者を持っていた。その時の宗派基盤により組織された伝統的な政治生活で、マロン派は重要な影響力を楽しんだ。 レバノン大統領は憲法によりマロン派から就任する事になっている。他の宗教共同体はこの権力構造に反対し、その信者数に比例しない権力をマロン派に与えていると主張している。
数千人のマロン派の人々が内戦の間に国外へ脱出するか、難民となった。多くは不安定な政治状況によって他国へ移住し続け大部分の政治指導者は亡命した。 マロン派はシリアのレバノン政治への支配と影響に反対している。
Update: April.28 1996